メイン | 2006年8月 »

2006年7月に作成された記事

2006年7月31日 (月)

富田メモ

九州は福岡にて頑張っておられる方から、メールをいただきました。


最近話題になっている「富田メモ」についての画像です。

http://kore.mitene.or.jp/~harukado/haru/gazou-ire/tomita-memo-no-sinjitu.jpg






富田メモはトラップのような気がしてなりません。

昔から「天皇のお言葉」が表に出る時には、必ずと言ってよいほど政治的な背景が絡んできました。

今回も、わざわざ安倍官房長官の「美しき国へ」が出てくるのにぶつけるような形でスクープがなされた不自然さが気になるところです。






いずれにせよ、このメモ。真偽が全く定まっていません。


第一、日経新聞はこのメモの全てを公開すべきであるのに、それをせず、たった1枚のメモのみを巡って議論をしようとしています。






2006年7月30日 (日)

将軍様!

子育てをしていると、テレビというのは非常に重宝するアイテムです。

なにしろ、テレビの前に子供を座らせておけば、その間に色々なことができますから。




ただし、我が妻に言わせると「テレビの前に子供を置きっぱなしにするのは危険!」だそうです。

テレビを単一刺激として成長した子供は、意思を相手に伝える術が弱く、社会適合性に乏しくなる・・・・・というのがその論拠です。




まあ、仰ることも一理あるので、子供をテレビの前に置かないようにはしているのですが、いかんせん、ウチの坊やはテレビが大好き(苦笑)。

どうやら、変な言葉をテレビから仕入れているみたいです。








今日も、驚くべき言葉を投げかけられました。



マンセー


どういった類の番組を見たかは想像がつくけれど・・・・・・そんな、手を挙げて祝福してくれなくても結構です(苦笑)。






2006年7月29日 (土)

地方交通体系のあり方

通常、どこの自治体でも議会は年に4回開催されます。

おおむね、3月・6月・9月・12月というのが相場でして、議会と議会の間に全ての議員が参集する会議は開かれることは滅多にありません。

これでは、議会と行政の距離が離れるばかりである・・・として、勝山市議会では、議会がない月の最終金曜日に全員協議会を開催しています。




7月の全員協議会が昨日開かれました。

いくつかの重要課題が議論されましたが、その中でもバス路線の変更問題は、喫緊の課題です。





京福バスが、路線見直しを今年の秋口に行います。そこで、廃止・見直しの対象路線として「大野⇔福井医大線」が挙げられる可能性が高くなりました。

大野・勝山間は収益性から見ても存続なのですが、勝山から医大までにほとんど人が乗っていないことが調査の結果判明したためです。


公共交通網をいかに維持するか。これは今後の自治体にとって重要な課題です。行政も何とかして維持・存続に務めていますし、議会としてもその方向性で努力しています。



ただ、行政現場で「もう少し人が乗ってくれたら・・・・・」というボヤキが出ていることも、市民の皆様には知っていただきたいと思うのですね。

実は、公共交通網には国からの補助が出ています。この補助がなくなれば、市単独で行わざるを得ず、コスト的に膨大な予算を必要とします。

この補助が出るラインが
常時5人以上が乗っていること
ただこれだけなんです。細かいことを言うとキリがないのですが、常時5人以上が乗っていないような路線には補助が出せない・・・・と国が言っていると考えてください。

つまり、公共交通網を残したいと考えるのであれば、是非、バスに乗ってください。



えちぜん鉄道と同じ問題をバスも抱えています。

存続のためには、バスに乗ってください。

私もできるだけバスを使うようにします。








お疲れ!

うちの2歳になる坊やを保育園まで迎えに行きます。


すると、必ずと言ってよいほど坊やが言うのが


おじぃぞぉーさん


わしのこ保育園の側には、お地蔵様が5体鎮座されていますが、そのお地蔵様を見に行こうというのですね。





よしよし、おじぞーさんを見に行こう・・・・と連れて行くと、

なんなちゃん

とお参りして帰ろうとします。どうやら「なんなちゃん」は「南無阿弥陀仏」の略みたいです(笑)。







昨日、妻が坊やを保育園まで迎えに行った際のこと。

いつものようにおじぞーさんを見に行くと、坊やがおじぞーさん相手に何かを言っていたそうです。


・・・・?・・・・・


何を言っているのだろうと、耳をすまして聞いてみると・・・・



きょうもいちにち、がんばったよぉぉ


妻、大爆笑。「今日も一日、がんばったよぉ」って、なんてオヤジくさい台詞(笑)。

子供は子供なりにがんばってるんですね。^^




風林火山

なんだか最近、NHKの大河ドラマを見ていません。

「新撰組」も途中までは見ていたんだけれど・・・・・妻は喜んで見ていたようですが、私は正直なところ、ダレました。香取君の近藤勇や土方歳三などは、ハマリ役といってよいほど良かったのですが、どうにも肌があわなかったみたいです。


(別にドラマ自体の価値を言っているのではありません。好みの問題ですので、あまり突っ込まないでくださいね)。




さて、来年の大河ドラマの内容が発表されました。

「風林火山」・・・・・・いいですねぇ。

しかも、山本勘助が主人公とは!しぶいですな、NHK。







主人公の山本勘助役には、内野聖陽ですか。うん、ちょっと美形だけど、シブいので良いんじゃないですかね。Mo3859



ただ、山本勘助というと、映画『風林火山』の三船敏郎のイメージが余りにも強烈過ぎて・・・・・






他の配役はどうなっているのでしょう。


武田信玄に市川亀治郎・・・・・そこに2代目亀治郎を持ってきますか。いよっ!澤瀉屋!




そして、信玄若かりし頃といえば、重要となってくるのは親父の信虎。
その信虎役には仲代達也。

う~ん・・・・悪くないんです。仲代達也は好きな俳優だし。でも、何だか私の中の信虎像と違うような気がします。

もっとも、これは好みの問題ですから、まあ良しとしましょう。





武田信玄の周りには、個性的な武将が綺羅星のように活躍しました。

思いつくままに挙げてみると・・・・・まずは、武田四天王ですよね。馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信。

おそらく、この四天王は山本勘助と時代的にだぶることが少ないでしょうから、登場する機会もあまりないことでしょう。

それでも、飯富虎昌、板垣信方、原昌胤、甘利虎泰、真田信綱・・・・といったビッグネームがゴロゴロ出てくるはずですから、そのあたりもしっかりと登場させて欲しいものです。






さあ、私的にはかなり盛り上がってきました。
(何しろ、戦国モノの中では武田―上杉モノが一番のお気に入りなものですから)




武田側が出揃ったところで、上杉側にも魅力的な武将が粒ぞろい。

柿崎景家、北条高広、斉藤朝臣、小島与太郎・・・・・いいですね、剛直そうな感じが(笑)。

このあたりもしっかりと、登場させていただきたいですね。





あっ、そうそう。大切な人物を忘れてましたよ。

越後の龍、「不識庵」上杉謙信。

誰がするのかな?




・・・・・・・・・・・・・・うん?・・・・・・・・・・・・・・





・・・・・・Gackt・・・・・・?






Ken_zou3

・・・・・あの~、つかぬ事を伺いますが、謙信公といえば、
←←←これなんですけど。










2006年7月28日 (金)

自民党総裁選挙もいよいよスタートしました。


まずは谷垣財務大臣が出馬表明。

谷垣氏の政権構想を見てみましょう。

①中国や韓国の首脳と直接対話できる関係構築

②消費税を社会保障目的税化し、2010年半ばまでの出来るだけ早い時期に10%に税率を上げる


③地域活力を取り戻す総合的な取り組み

なるほど、消費税率10%とは思い切ったことを言いましたね。かつて消費税パニックで内閣がひとつ吹き飛んだことを思えば、隔世の感があります。

ただ、②と③の整合性がとれていないようにも思えます。






さて、この政権構想の中で①を見て、「ああ、遂に術中にはまったか」と嘆息。

①が小泉首相の靖国参拝のことを指していることは明確です、。谷垣氏自身も靖国参拝には否定的な発言を繰り返しています。

参拝の是非を問題視しているのではありません。それを選挙公約にしてしまった点が大問題なのです。


「外圧」によって選挙公約が決められたわけですから。

靖国については沈黙を守り、中国に何かを言われた段階で「それは私たちの内々の問題ですから、口を挟むのはご遠慮願いましょう」くらいのことを言って欲しかったのですが・・・・










日本外交のミスで、中国に持たせてしまった「靖国カード」ですが、このカードの最終的な切り方はどのようなものになるでしょうか。


私が中国外交部に所属していたならば、最終的な切り方は「外交と戦争は相手の予測しなかったところを突く」の格言にしたがって、


中国国家主席の靖国参拝

という落としどころに持っていくことでしょう。

反日で国を束ねている国家の首席が靖国を参拝することなどありえないとお思いですか?

あれほどの報道管制を引ける国ですから、その程度のことはどうとでもなります。








そして、首席の靖国参拝が実現した際には、信じられないほどの手土産を日本政府は渡すことでしょう。

あれですよ、ヤクザの恫喝と同じ手口。脅すだけ脅しておいて、一転融和ムードを漂わせると、人は不思議なくらい安堵感と親近感を持つものです。








「いえ、首席の靖国参拝は結構です。あなた方はあれほどまでに私たちを非難したではありませんか。あなた方は私たちの名誉だけでなく、先人たちの名誉までをも貶めたのです。そのような方に参っていただこうとは思いません」
と毅然と対処できると思いますか?


それが言えるくらいなら、李登輝氏は国賓扱いで来日しているはずです。



2006年7月27日 (木)

名古屋だがや

3日間のお休みをいただいて、名古屋に行ってきました。

妻は名古屋の方の短大を出ていまして、独身時代は年に1回くらいの割合で友達と遊びに名古屋に行っていたそうです。

ところが、私と結婚してから家事やら育児やらに追われてなかなか友達と会う機会も持てませんでした。

私も、やれJCだ、やれ飲み会だ、やれ会議だ・・・・・と、妻に負担を背負わせているので、せめてもの罪滅ぼし。妻への誕生日プレゼントも兼ねて、名古屋旅行を計画したわけです。




それにしても、名古屋は道が広いのは良いのですが、とにかく暑い!

私のような人間が住む場所ではないようです。






2006年7月24日 (月)

モノより思い出、でもその思い出は・・・

KDDIが3年前から「ライフPod」の開発を進めているそうです。


この「ライフPod」は、カメラ、各種コードリーダー、電子マネー、時計、GPSなど携帯電話の付属機能を活用して、個人の記録を収集するものです。

大まかに言うならば、自分の買ったもの、調べたこと、行った場所などの行動記録を逐一記録して、自動的に系統だった“生活記録”として蓄積するものとなるのでしょう。






こういった発想は、最近になって誕生したのではありません。



 コンピューターの集積が飛躍的に高まり小型化・軽量化が進んだ結果、「コンピューターと付属機器を体に装着することも可能になるかもしれない」という予測が成り立ったとき、開発者たちはこんなことを考えたことでしょう。



これで、見たもの・聞いたことの全てを記憶できる時代が来る









ウエラブル(Wearable:「体に装着可能」の意味)の誕生です。



NTTで研究されているウエラブルの一例を挙げましょう。



 体に貼り付けたセンサーで、自分がどこにいるのかがGPSで把握できます。また、超小型デジタルカメラをつければ「今、自分が見ているもの」をカメラに撮ることもできます。


 これらのデーターは、赤外線送受信の機能でコンピューターネットワークに情報送信されるため、「自動的」にしかもネットワーク上に落とすため「半ば無尽蔵に」送り続けることが可能になります。


 つまり、放っておいても勝手に「完全な自分史」が刻々と作られているわけです。



 NTTはMIT(マサチューセッツ工科大学)のメディアラボと共同で、1997年にはウエラブルのファッションショーまでしています。つまりNTTは10年も前から、そういった時代が来るであろうと予測していたのでしょう。



そして、その時代は半ば現実のものとなりつつあります。





 「経験の記録と共有」と題された学会が、一昨年の4月にウィーンで開催されました。ここでスイスとドイツの学者たちによる共同研究が発表され、話題を呼びました。

 というのも、彼らは、人生の「すべての見たもの、聞いたこと」を記憶した場合の情報量を算定したのです。


 彼らの発表によれば、ウエラブルで音と映像を24時間、100年にわたって記憶した場合、おおよそ500テラバイトの情報量になります。DVDにすると10万枚程度ですね。

 DVD10万枚と聞くと膨大な量のようにも思えますが、情報集積技術の進歩の度合いからすれば、遠くない将来には十分にクリアできる容量でしょう。







さて、仮にウエラブルが実現化されたとしましょう。


そこでは、何が起きるのでしょうか。


おそらく、心理的に深いところでウエラブルに対する拒絶反応が起こると思われます。



というのも、まず、断言しても良いのですが「100%のウエラブルに耐えうる人間はいない」はずですから。




考えてもみてください。自分の見たもの、聞いたこと、行ったこと、失敗したことなどすべてが記憶されているアルバムがあるのです。消してしまいたい記憶や、思い出したくもないことまでが有りのままに存在する・・・・・それを直視できる人がどれだけいるでしょうか。



今、「アルバム」という表現を用いましたが、正確にはウエラブルはアルバムではありません。



なぜなら、ウエラブルには意思がないからです。




219923027スーザン・ソンダクは、『写真論』の中で、こう述べています。

写真を撮ることは、写真に撮られるものを自分のものにすることだ




「自分のものにする」とはなかなかに穿った表現です。被写体の時間、行為、そういった全てを写真という一枚の画像の中に取り込むことは、相手を自分のものにする行為に他なりません。



 ウエラブルには、そういった「意思」がないのです。誰かを自分のものにしようとする意思がない、有り体に言うならば「単なる情報が延々と蓄積されていく」・・・・・この無味乾燥さに果たして人々は耐えうるでしょうか。

明けても暮れても毎日毎日雪ばかり降っていて、それがどんどん積もっていく。そんな気象下で暮らすことは、物理的にではなく、精神的にまいってしまうはずです。











もうひとつ、ウエラブルが完成したときに興味深い点は、

その記憶物は何なのか

ということ。





 われわれは、昔のことを思い出すときに、美化が入ったり修正したりします。ところが、ウエラブルはそれを一切許しません。有りのままの情報が、そのままで残っているわけです。




いわば、「私よりも私のことを知っているもの」があるわけです。




「そんなことはない。所詮は、それは過去の情報の集まりにすぎないではないか」という声が聞こえてきそうです・・・・・ですが、ちょっと留まって考えてください。


 あなたが100%ウエラブルを身につけていると仮定しましょう。今、この瞬間にもあなたが見ている情報は刻々とコンピューターネットワークの中に取り込まれています。

 つまり、あなたが「ウエラブルは所詮は過去の情報。本当の時間を持っているのは自分自身である」と考えていたとしても、
その「あなたの時間」は、「今、この瞬間のみ」でしかありません

 一瞬でも過ぎたならば、それはウエラブルに記憶される情報になってしまう・・・・言うなれば、われわれはウエラブルに情報を記憶するために行動している状態に陥るのではないでしょうか。

 「そんな馬鹿な!」と一笑にふされるかもしれません。でも、運動会でビデオカメラを回している人たちを見ると
(別にそれ自体を悪いと非難しているのではありませんが)、あながち的を射ていないとも思えないのです。




 「わたし」の記憶は「わたし」ひとりのモノのはずです。わたしの記憶を一番よく知っているのは、「わたし」です。もちろん、「わたし」と時を共有した「別の誰か」は、その時の「わたし」のことを知っています。しかし、それは「その人」の記憶の中にいる「わたし」であって、「わたし」の記憶ではありません。

ところが、ここに「わたし」よりも「わたし」に詳しいものが出現します。



すると、ウエラブルは「もうひとりのわたし」になるのでしょうか。














人はドッペルゲンガーを見たときに死ぬ・・・・・という言い伝えがあります。この言い伝えを真に受けてはいませんが、非常に示唆的であると思うのです。




 「現在の記録を残そう」とする人類の情熱は、石器時代の昔から始まっています。洞窟の壁画などに残された絵画などに見られるその想いは、 文字の発明により歴史という形で残されるようになりました。人々の行為は文学という形で後世に残され、絵画という見える形で伝えられました。



 “Life is short, Art is long.”(人生は短し、しかれども芸術は永し)



この感動を伝えたい、この人の生き様を残したい、わたしたちがこの世に生を受けた事実を残したい・・・・そういう想いが、ウエラブルには根本的に欠落しているのです。




そのウエラブルが「もうひとりのわたし」になってしまうことにより、われわれは精神的な退廃に追い込まれるように思えてなりません。ドッペルゲンガーを見た人物のように。









4588004557

自分が仮に100%ウエラブルを見に付けて、なおかつ、自身の行動記録を何日も何日も見続けていたらどういう気分になるだろうか・・・・・と考えてみました。



おそらく、「桶の中の脳」の気分になることでしょう。



哲学者ヒラリー・パトナムが提示した、この奇妙な例えは、実際に映画『マトリックス』の中で視覚化されました。



この「桶の中の脳」とは、次のような例えです。





 ここに、培養液に浸された人間の脳がある。この脳は体から切り離されているが、神経系は正常に活動している。
(ルパン3世のマモーを想像してもらえればいいでしょう)。

 この脳の神経系に対して外部から刺激を与えると、脳は「今、目覚めた」「お腹が減った」「ああ、そろそろ会社に行かなくちゃ」等々の意思を、刺激に対する反応という形で発揮する。


 さて、この脳の立場になってみると、彼(or彼女)の意識の中では、日常生活を滞りなく送っているのだ。日々、泣き笑い、喧嘩し、働き、子育てし、そして死ぬ・・・・一連の人生を送っているのだが、果たして脳は自分が外部から刺激を送られているに過ぎないという『事実』に気づくのだろうか。





 この疑問自体は、デカルトが方法序説の中で述べたことに端を発するのですが、パトナム自身は、この問題について「脳は、自分自身のおかれた状況についてわからない」と結論付けています。




 映画『マトリックス』を例えに引くと、マトリックスの中で一生を過ごす者は、マトリックスの存在について語ることはありません。



 否、正確に申すならば、仮にマトリックスについて語ったとしても意味をなさないのです。パトナムによれば、桶の中の脳が「本当の姿」を認識できないのは、「それを語る言葉を持たないから」です。

 仮に、桶の中の脳が、その意識のなかで「脳」という言葉を想起したとしても、それは桶の中の脳が置かれている「現実の姿の中での『脳』」を意味するものではありません。

 犬が『ワン』と吼えても「おお!数字の『1』を犬がしゃべっている」と考える人はいないでしょう。

 


言葉が意味を成すためには、発話者と受け手の間に共通理解が成立していなければならないのです。





ならば、自分のウエラブルを自分が見るときには、完全に自己完結した世界のみが開かれます。










ここまで書いてきて、ふと思いました。




Malkovich



なあんだ、「マルコビッチの穴」じゃん(笑)












そもそも、他人のウエラブルを見たいと貴方は思いますか?

わたしは思いません。

それは、他人が説いたロールプレイング・ゲームの行動画面を延々と見せられるのにも似ています。



ましてや、それを見る時間がもったいない(笑)。

60年間の記録を見ようと思ったら、倍速で見ても30年かかるのですよ?

2006年7月23日 (日)

護衛艦はるな

私は、2月に1度の割合で無料法律相談をボランティアでやっています。

本日の午前中は、教育会館でそれを行っていました。



午後は、所要で大野へ。








その頃、妻と子供たちは、護衛艦「はるな」を見るため福井港まで行っていました。


自衛艦の体験航海には、残念ながら選に漏れましたが、見学することはできるので、行ってきたそうです。






Photo_2
坊主も大喜びで、

おふね!おふね!

確かに、おふねはおふねだけれど・・・・・

納涼!

昨日は、わしのこ保育園の納涼祭が行われました。

私も父兄として、昼からセッティング。


坊主が保育園に通い始めたので、いよいよこういった保護者事業にもデビューです。

保育園→小学校→中学校→高校・・・・・長い道のりになりそうです(笑)。






保育園の納涼祭の後片付けが終わったのが、おおよそ午後8時くらい。

ひとっ風呂あびて、地区の子ども会のキャンプに合流しました。


私が子供の頃にそうであったように、今の子供たちもキャンプでは大はしゃぎです。就寝時間からは、大人のトンチャン・タイムが始まったのですが、鉄板を囲む大人たちの笑い声と、テントから漏れる子供たちのはしゃぎ声は夜が更けるまで聞こえたのでした。