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2008年3月に作成された記事

2008年3月31日 (月)

ホームページリニューアル その2

早いもので、もう3月も終わろうとしています。今年も4分の1が過ぎてしまいました。



ホームページのリニューアルも、あらかた終わりました。

おそらく、以前からご覧になられている方は「・・・おや?・・・」と思われるのではないでしょうか。


おかげ様で、ここのところHTMLとスタイルシートの解説書と首っぴき状態です。





ホームページのリニューアルにあわせて、「調査・研究」と銘打って新しいコーナーを設けました。

「一体、これはどうなっているんだ?」といった市民の方々よりいただいている声と、私自身の調査・検討している課題を並べて、その進捗状況と結果を報告させてもらうコーナーです。

(個別の要望事項は、もちろん掲載してはおりません^^; 


2008年3月30日 (日)

市役所職員の電話

仕事柄、市役所に電話することが多いのですが、なぜ役所の電話ってあんなに同じ事を言わせるのでしょうか。時々、うんざりします。


職員A:「はい、■■課です」
私:「ああ、すみません。ちょっと○○の件についてお尋ねしたいんですが」
職員A:「少々お待ちください」

(保留音を聞きながら一服)

職員A:「すみません。担当の者に廻しますのでお待ちください」
私:「お願いします」

(保留音を聞きながらコーヒーを飲む)

職員B:「代わりました。ええっと、どういったご用件でしょうか」
私:「○○の件についてお尋ねしたいんですが」
職員B:「○○のどういった点でしょうか」
私:「○○の△△についてなんです」
職員B:「ああ、それでしたら、ちょっと私では説明しかねますので、上の者に代わります」
私:「お願いします」

(保留音を聞きながら煙草に火をつける)

職員C:「代わりました。どういったご用件でしょうか」
私:「○○の△△についてなんですが」


私が民間会社に勤めたときの講習で、電話の応対マナーを教わったときには「お客様に同じ事を何度も言わせるな」と叩き込まれたのですが・・・


2008年3月29日 (土)

一般質問について

HPのリニューアルということで、ただ今コンテンツを書き書きしているところです。

とりあえず、直近の12月議会の一般質問を議事録から転写しているのですが・・・・・とにかく長い(涙)。そして、喋り口調なので議事録を読んでいると、自分のことながら時々イラッとします(爆)。




一般質問の内容は議員によって様々ですが、その喋り方も様々です。

典型的なのは、原稿を作ってきてそれを読むタイプ。これは、間違えない上に、議事録上もきれいにまとまるという利点があります。

私も、最初の頃はこのタイプでしたが、最近は原稿を作らなくなりました。なぜかと言いますと、原稿を読んでいるだけでは面白みに欠けるのではないかと考えたからです。

私は、喋る内容をフリーマインド型式にして、それを基に喋っています。ただ、喋り口調というのは、文章にされると途端に冗長になってしまうのが難点ですね。

もうちょっと工夫をしなくちゃいけないと、反省することしきり。

2008年3月28日 (金)

ホームページ、リニューアル

このブログの名前は『月下独酌』です。長らく私のブログを見ていただいている方ならばご存知でしょうが、この『月下独酌』は3代目になります。


そもそも、なぜにブログを始めたのか・・・これは、私の不精が原因でして、HP上の掲示板が故障してしまったことに端を発します。

掲示板が再開できないので、とりあえずブログを始めたら、HPを更新するよりもブログ更新の方が楽だったので、ずるずるとここまで来てしまいました。^^;



「そろそろHPの方も何とかしてください」という声を、なぜか最近よくいただいたので、一念発起して、HPをリニューアルしました。

というわけで、とりあえず主軸をHPの方へ移していきます。このブログ自体は、閉鎖せずに今後とも細々と続けていくつもりです。HP上の掲示板と、このブログをどのように棲み分けるのかについては、しばらく運用しながら考えていきたいと思います。ご迷惑かけますが、今後ともおつきあいください。


松村治門ホームページのアドレスは下記のとおりです。

http://kore.mitene.or.jp/~harukado/____top.html

葭田野様よりいただいたコメントに対して、お答えいたします。



会派というものが、なぜ存在するのか。これは、難しい問題です。

実は、この「会派とは何か」という問いに対して、明快な答えは用意されていません。法的には「議員の集合体」ということになるのでしょう。最近の判例を見ても、裁判官によってその捉え方はまちまちです。

むしろ、「会派とは何か」という問いよりも、「会派が何をするのか」という問いの方が重要なのでしょう。葭田野様の疑念もその辺りにあるのだろうと推察します。

これまで会派は、どちらかというと「数は力」の原理で押し切るものとして捉えられてきました。私はそれを否定するつもりはありません。なぜなら、「議会の中を変えていこう」とする際にも、実際に「力」は必要になってくるからです。真に重要なことは、「その力をもって何をなすのか」といえるのでしょう。


さて、「議会の中を変えていこう」という目標はあるのですが、具体的に何を変えるのかについては、いささか話が長くなりますし、論点が多岐に渡ります。

そこで、この場ではひとつだけ。

これまで議会は「議決だけをする機関」でした。例えば、3月議会に議案が提出されます。その議案を「可決するか、否決するか」の二者択一だけをする機関であったのです。もちろん、理事者に対して意見を述べたり、執行に対しての注文をつけることはいたします。

しかし、出てきた議案をひっくり返すことはなかなかできません。次年度予算案などはその典型例でしょう。予算案をひっくり返すということは、市長に対する不信任案と同様です。

これは、本来的におかしなことだと私は考えていました。私たち議員は、市民の代表者として議場に立ちます。市民の求めるもの、市民の意見を市政に反映させることが私たちの仕事であるにもかかわらず、肝心の予算案に我々の意見は反映される場が無い。

まずは、この点から変えていきたいと考えています。




それと、もうひとつ。

「数」を頼みに、私腹を肥やすという会派は「親分―子分」の関係がきっちりしています。少なくとも、私の属する会派はそのような関係がありません。

だって、会長である私が議員の中で最も若造なんですから。^^;








もうひとつのコメントで取り上げられた「おりものミュージアム(仮称)」についてですが、この建物の本来の目的は「文化財としての保存」にあります。

かつて、勝山は煙草の生産地として名を馳せていました。しかし、そのことを知る若者は多くはありません。私も知識としては知っていますが、果たしてどの程度のものであったのかはさっぱりわかりません。なぜなら、往時の姿を残すものが何もないからです。

繊維産業が勝山からなくなるとは思えませんが、それでも次の世代に「繊維王国 勝山」の姿を示す建造物を残すことは必要でしょう。

その意味において、私は「おりものミュージアム(仮称)」を残すことに賛成なのです。


ただ、そこから一歩進めると、話がややこしくなります。

あの建物を観光の起点にするのか、エコミュージアムの発信地にするのか、それとも歴史を示す展示場にするのか・・・・様々な目的・用途を詰め込みすぎて、何となく焦点がぼやけてきているような気がします。

新年度から「立ち上げの準備室」が設置されますが、このぼやけた焦点のピント合わせをどのようにするのか・・・・これは難しい問題だと思います。


2008年3月21日 (金)

早すぎる死

最近、お悔やみ欄を見ていると、勝山では「なぜこんなに若いのに・・・」と嘆息する年齢で亡くなる方が多いです。

57歳の市職員が亡くなったのもそうでしたし、その市職員と同じ日に53歳の方の名前もお悔やみ欄にありました。

その数日後にまた53歳で亡くなる方。そして、今日のお悔やみ欄には37歳で亡くなった女性の方・・・




もちろん、亡くなられた方の親族の方々の悲しみはいかばかりかと思いますし、それは年齢にかかわらないことなのでしょう。

ただ、これだけ若い方々のお悔やみを耳にすると、悄然とした気持ちに襲われます。




※葭田野様。つけていただいたコメントに対するお答えは、もう少しお待ちください。書いていたら長くなりそうなので。
   m(_ _)m

2008年3月19日 (水)

新年度予算可決

17日は、北部中学校の卒業式に出席。



今年の北部中学校の卒業生は56名でした。ちなみに、中部中学が120名強。南部中学が70名強というところです。

子供たちが立派に歌を歌うのに感心しました。式典等で大きな声で歌を歌うというのは、簡単そうに見えて難しいものです。




卒業式が終わったら、午後から議会改革特別委員会。

懸案事項となっている議会改革案について、喧々諤々の議論が行われました(本当に喧々諤々)。






18日は、新年度予算審議。

朝から缶詰で行われた予算審議も、この日で4日目。審議を終了して採決になり、平成二十年度一般会計予算が委員会を通りました。

新年度予算の特徴は、3年ぶりの拡大型予算であること。

行財政改革によって産まれたお金を有効に使おうという意図が見えます。








その他、3月議会にかかっている議案については、後日ゆっくりとお話仕様と思います。


2008年3月18日 (火)

勝山左義長まつり

週刊文春3月20日号をコンビニで買いました。

巻末のページ(モノクロ写真)の椎名誠氏のところをご覧ください。

「ニッポン『奇祭』大全」と銘打って、椎名氏が長年に渡って取材した祭りの中で最も印象に残る祭りをピックアップしています。

そして、その中に勝山左義長まつりが。


記事全文。


日本全国の祭りを「ありゃまあ」(どこかヘンテコな)と思う点で選び、四年間で24箇所を取材・撮影した椎名誠さん。汗まみれ、雪まみれになりながら、シャッターを押し続けた。

「祭りってある種の恍惚感があるでしょう。それを見つけて写真に捉えたときは狩猟している気分だよね。やったな、撮ったぞって」

とはいえ、撮影の苦労は数知れず。祭りの全貌は行ってみて初めて分かるということも多かったからだ。
「(岩手県八幡平市の)平笠女裸参りというのに名前に惹かれて行ったんだよ。でも、雪道を厚着した女性たちが行進するだけ。アマチュアカメラマンはたくさんいるし、被写体に変化がないので、一番苦労したなあ。」

宮古島では全身を腐敗した泥で覆った“神=バーントゥ”から逃げるために本気で走りました。臭くてね。写真を撮るために正面に回ったら「椎名さ~ん」って抱きつかれちゃって。結局正面からの写真は撮れませんでした。

一番印象に残っているのは(福井県勝山市)左義長祭り。翌朝余韻があってね。誰もいなくて寂しかった。祭りの後の悲しさを噛み締めながら去ったんですよ。来年また行こうと思ってる。十数年ぶりに記録映画を撮りたくなっちゃって。それくらい良かった」



この機を逃すな!勝山市。



確か、椎名誠氏が勝山左義長まつりを訪れたのは3年前だったはず。当時、私はJCで左義長まつり担当委員長をしており、理事長だったM君が「しまったぁ。椎名誠が芳野のやぐらに来てるのなら・・」と悔しさ爆発していたのを覚えています。

あの時も椎名誠氏は週刊文春のコラム『風まかせ赤マント』に左義長まつりのことを大々的に書いていました。

その中に、「まるで、フェリーニの『8と1/2』に出てきそうな雰囲気だった」といったような一文があったと記憶しています。なるほど、椎名氏の目にはそういう風に写ったのか・・・と。

ならば、記録映画を撮ってもらいましょう。

こういうところにお金を惜しんではいけません。このタイミングを逃すな!勝山市。

もちろん、私も全力でプッシュします。

2008年3月16日 (日)

当世学生堅気

この前の話です。

昔、家庭教師をしていた子供から電話がかかってきました。彼ももう大学2年生。進路に関する相談ごとだったのですが、そこでこんな会話が。

私:「バイトとかしてるの?」
彼:「してるっす。結構、お金がいるんですよ」
私:「そっか。色々遊ばなきゃいけないよな」

私:「レポートやら何やらで、学生も大変だろう?」
彼:「いやぁ、そんなことないっす。レポートなんて5分でできるっす」
私:「はぁ?・・・5分?・・・・」

私が学生の頃と違って、今では大学生のレポート提出もメール添付で送るそうです。まあ、教官からすれば、便利この上ないのでしょうが、メール添付ということは、ワード文書で送ると言いうこと。

そうすると、そこで登場するのがコピー&ペースト。あちらからコピペ。こちらからコピペ。つぎはぎだらけとはいえ、5分でレポートが完成するというのも納得です。

小学生の頃、読書感想文の宿題に「あとがき」のコピペをしていた私としては、彼の発言を聞いて苦笑い。当世学生堅気というやつですね。






彼の即席レポート作成講座を聞いてふと思い出したのは、私の学生時代のこと。



とある授業の冒頭で、こんなことを教官から言われました。

「私の授業ではレポートを書いてもらうのだが、ひとつだけ言っておきたいことがある。君たちのレポートの内容には、さほど期待はしていない。独創的なレポートなど学生ごときのレベルで書けるはずがないからだ」

「おそらく君たちは色々なところから、切り貼りしてきたものをまとめるだけのレポートになるだろう。痩せても涸れても私はこの道のプロだ。これでメシを食ってるのだから、君たちがどこから切り貼りしてきたかなどはすぐにわかる」

「私が点数をつけるのは、その切り貼りの仕方だ」

「切り貼りにもセンスというものがある。これとあれを組み合わせたのでは、気持ちが悪い。理屈が通らない。そういったことがわからずに、無闇やたらとつなげるようなものには、点数はやれん」


ちなみに、この教官のレポート採点には伝説がありました。


この教官は、毎年4月の冒頭にこの台詞を吐くのですが、ある年のこと。
この台詞を受けて、ある学生がよりにもよって「切り貼り一切なし」のレポートを提出したそうです。つまり、その筋の権威と呼ばれる先生の論文(しかも教官の師匠)を、そのまま移してレポートにしてしまった・・・と。


そして、そこには
「あまりにすばらしい論文でしたので、切り貼りできませんでした」との学生の書き添えが。


「切り貼りはセンスだ」と言い切った手前、その書き添えの文句にぐうの音も出ず、さりとて自分の師匠の論文に点数をつけるわけにも行かず・・・・最終的に、“A”をつけたとのこと。


ちなみに、この「伝説」の出所は、当の教官自身。
「それくらいのセンスを見せれば、点数は高いぞ」
とのたまっておられました。


つまり、この言い草は「同じ手口は二度とは通じない」ということです。ここまで言われたのでは、こちらとしても黙ってはいられません。私たち有志は、あの手この手で「新しい手口」を工夫し、意気揚々とレポートを提出しましたが、軒並み撃沈されたのでした。




後日譚。

後輩からこんな話を聞きました。

翌年のこの教官の授業の冒頭は、例によって「私の授業ではレポートを出してもらうのだが・・・」で始まったわけですが、例年と違ったのは
「色々な手口を考えてくるばか者がいるが、センスが低すぎる。去年はこんな手口が出てきた」
と、私たち有志の手口を晒されたのでした。恥の上塗りです(涙)。







某音楽大学には、こういった伝説があるそうです。

出席率の低さに腹を立てた音楽史の教官が学期末の試験問題にこんな問題を出しました。
「この授業の担当教官の顔写真を当てよ」
真面目に授業に出席していれば顔くらいはわかるだろうと。



問題の下には音楽史の偉人の顔が並んでいます。バッハ、ハイドン、モーツァルト・・・その中に日本人の顔が並んでいれば簡単なはずなのですが、この教授もその当たりは心得たもの。わざと助教授やら講師やらの顔写真を混ぜておくわけです。


通常、試験会場に授業担当教官は現れません。ところが、この教授。ちらりと顔を出すわけです。
それを覗いた学生たちは、「しめた!」とばかりに問題用紙の顔写真に丸を打つ・・・・のですが、ここに現れたのは教授ではなく、講師。


これが第1のひっかけ。


この第1のひっかけをクリアした学生たちがいます。学生たちもバカではありません。試験間際になると、「何か試験に出そうなことを言うかもしれない」と授業には顔を出すものです。試験のある月だけでも授業に顔を出している学生たちは、担当教授の顔を見知っているのですから、こんなひっかけには落ちないのです。


ところがこれが第2のひっかけ。


この教授、試験当月の授業には、そのダミーの助教授に授業をさせておく念の入れよう。「試験前くらいは授業に出て、何か役立つ情報を得よう」と、そこだけ出てきた学生たちは、あえなく第2のひっかけにだまし討ち。


しかも、学期末の試験はこの1問だけ(笑)。









昔昔から伝わる話としては、こんなものがあります。

「テストで全くできなかった学生が、ダルマの絵を描いて『手も足もでません』と書き添えたらテストに通った」



これは、もはや『伝説』の名に相応しい地位を占めています。
「解剖実習で、耳を切り取って壁につけて『壁に耳あり、障子に目あり』とギャグをかましたら教官に見つかって退学になった」
というくらいの『伝説』でしょう。



ただし、「壁に耳あり」はあながち嘘とも言えません。確か養老猛司氏だったと思うのですが、こんなことを書いていらっしゃったように記憶しています。
「解剖の実習に始めて参加する学生は、段々とおかしな気分になっていくんです。陰嚢を切り取ってぶらぶらさせて「ほ~ら、風鈴だよ」なんて言い出す」
なるほど、そんな雰囲気なら「壁に耳あり」もあったのかも。



さて、問題の「ダルマの絵」なのですが、人間追い込まれると色んな手段を講じるものです。

私もドイツ語のテスト(担当教官ドイツ人)で試してみたことがあります。ダルマの絵。

・・・・結果ですか?・・・・・(沈黙)・・・・・

2008年3月15日 (土)

ある種のブラックジョーク

前回のブログでブラックジョークを紹介しましたが、現実世界の方がよほどブラックです。

北海道新聞より


約十万人が犠牲になったとされる1945年3月10日の東京大空襲の被災者や遺族ら20人が10日、国に総額2億2千万円の損害賠償と謝罪を求める集団訴訟を東京地裁に起こす。
道内2人を含む112人が昨年提訴したのに続く第二次訴訟。

原告は東京、大阪など七都府県に住む69歳から79歳までの男女。

訴状などによると、原告に加わる大阪府高槻市の無職竹中順三さん(71)は、長野県に疎開していた8歳の時、空襲で両親を亡くした。遺体も発見されず、近所の人たちも逃げ惑っていたため、死亡時の状況も分からないという。「官民一体で戦争に臨めと指導されていたのに、終戦後の補償が軍人とその遺族だけというのはおかしい」と疑問を抱き続けてきた。
「提訴を通して平和の大切さを広く伝えたい」と願う。他の原告の中には、空襲で右足が不自由になり、今も生活に不安を抱える女性もいる。

昨年3月9日に提訴した第一次訴訟では、口頭弁論は4回開かれている。原告側が国に謝罪と一人当たり1100万円(総額12億3200万円)の損害賠償を求めているのに対し、国は事実関係の認否をせず、「戦争被害は国民が等しく受忍しなければならない」として証拠調べも不要と主張している。




「東京大空襲が、国際法違反の無差別じゅうたん爆撃であることを裁判所に認めさせ、戦争を開始した政府の責任を問う」という理屈がよくわからないのですが、なぜ、日本政府を訴えるのか?という素朴なツッコミはさておき、東京大空襲について。







東京大空襲は長崎・広島の原子爆弾投下に匹敵する無差別大量虐殺行為ですが、その記憶も薄れ対米追従のマスコミによって報道される機会も少なくなりました。

その証拠に、東京大空襲の3日後に行われた大阪大空襲のことを知っている人たちがどれだけいるでしょうか。大阪大空襲も東京大空襲も忘れ去られようとしています。



その東京大空襲を指揮したのはカーチス・ルメイ少将。東京大空襲時は38歳でした。

実は、このルメイ少将の前任者であったハンセル少将の時から東京は爆撃されていました。しかし、ハンセル少将は更迭。その理由は、ハンセル少将が高高度からの軍事施設ピンポイント爆撃にこだわったためでした。

東京大空襲に当たって、アメリカが徹底的に実験を行ったことはよく知られています。日本家屋がどのように燃えるのか、屋内まで精巧に作られた実験用家屋によって確かめていました。この精巧さに費やした労力は並々ならぬもので、日系の多いハワイから畳を取り寄せて作ったほどです。この実験によって作られたのがクラスター焼夷弾です。




さて、3月10日がやってきました。

東京に落とされたクラスター焼夷弾は、実に38万発。重量でいうと1780トンにのぼります。




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あまりにも有名な母子の写真です。子供を抱えて炎の中を逃げたために、母親の背中が焼けていません。

この写真を撮影した人物は、警視庁の石川光陽。警視総監の命を受けて、空襲直後の惨状をカメラに収めました。




後に、石川はGHQから写真の徴用命令を受けます。彼は、この命令に対して拠出を拒否。写真を庭に埋めました。彼のこの行為により、写真は後世まで残ることになります。







200pxlemay4 「皆殺しのルメイ」と呼ばれたルメイ少将は、その後トントン拍子に出世を重ねて空軍中将、空軍大将、戦略空軍司令官、空軍参謀長を歴任します。ベトナム戦争時には北爆を強く推進するなど、最後まで戦略爆撃にこだわった人物でした。



戦後に、「仮にアメリカが戦争に敗れたならば、私は戦争犯罪人として処罰されただろう」とルメイは語っています。

東京大空襲の非人道性を彼自身も理解していたのです。














この「鬼畜ルメイ」、「皆殺しルメイ」と蔑まれた人物は、勲一等旭日賞を得ています。



勲一等旭日賞とは、第1回受賞者は全て親王。他には、岩倉具視、三条実美、伊藤博文、山県有朋、勝海舟といった維新の元勲から始まり、様々な著名人(森鴎外や越前藩松平のお殿様)なども受賞している栄典です。この列にルメイも並んでいます。






Minoru_genda
このルメイ勲一等に大きく働きかけたのが、この人。源田実空軍大佐。


この人は、戦後に参議院議員となり「航空自衛隊の成立・発展はひとえにルメイ氏の尽力なり」と、ルメイ叙勲へ旗を振ったのでした。

源田実は、中佐時代に、真珠湾攻撃を山本五十六連合艦隊司令長官の航空参謀として指揮したこともある人物。



これは変節と呼ぶべきなのでしょうか。私はそう思うのですが。

事実、この叙勲は「源田への戦争責任追及をかわすためのものではないか」との声もあったそうです。



勲一等旭日賞は、天皇親授が大原則です。天皇親授とは、天皇が直接勲章を下賜されることですが、昭和天皇はルメイと面会することを避けられました。







さらに言わせてもらえるならば、東京大空襲に触れたならば、名古屋空襲の際の米兵捕虜
処刑に関して、戦後B級戦争犯罪人として処刑された岡田資中将にも言及したいところです。

現在、上映されている『ながい旅』の主人公ですね。大岡昇平の原作小説を映画化したものです。

それはまた後日。