« 2009年3月 | メイン | 2009年7月 »

2009年6月に作成された記事

2009年6月30日 (火)

交通対策協議会

昨日は、勝山市交通対策協議会に出席しました。


平成15年に小泉首相が
「交通事故死亡者を10年間で年間5000人にまで減らす」
と宣言してから、交通関連法令の厳罰化や取り締まりの強化により、年々交通事故死亡者数は減っています。

ついに昨年度は全国で5500人にまで減りました。これは40%近く減ったことになります。


山口勝山警察署長さんのお話では、「平成25年までに5000人を切る」というところまでもう少しに迫っているのですが、もはや警察単体でできることはしつくしたとのこと。

つまり、ここから先は皆さんそれぞれの努力にかかっているということです。


あと、署長からのお願いで、「りゅーぴーネット」へ登録いただきたいとのことです。これは福井県警が主催しているもので、不審者情報・交通安全情報・犯罪情報などがリアルタイムで配信されるものです。

興味のある方は、
こちらからどうぞ。


さて、もうひとつ。

前々から危険だなと感じていたことです。

携帯メールをしながら自転車に乗る高校生

実は、私の知人(お年寄り)もあれに正面からぶつけられて、あわや大惨事になりかけたことがあります。あれは何とかならんもんですか?と署長に尋ねたところ。

 
赤キップ切りますか?

と、思わぬお答えが。coldsweats02

道交法上は自転車も軽車両ですので、赤キップの対象になるとのこと。罰金は2万円。

皆さんも、メールしている高校生を見つけたら注意してあげてくださいね。本人のためでもありますし、歩行者の安全のためでもあります。


ちなみに、私も注意したことはあります。あるんですが、まるで不審者に相対するような目で見られました。
「え~、なんで~」とちょっぴりヘコんだ経験があります。crying

マイケル死す

マイケルジャクソンが死んでしまいました。crying

格好良かった。本当に格好良いという表現でしか語れないです。マイケル。


マイケル・ジャクソンのとらえ方は、世代によって異なるでしょう。おそらく50代の人々にとっては、ジャクソン・ファイブの頃からのファンも多いはず。まさに、マイケルと同じ年月を経た人たちです。

私たち40代前半の世代にとっては、マイケル・ジャクソンが洋楽の入り口だったという人は多いはず。スリラーが出たのが中学生の頃。洋楽に目覚める年代で「スリラー」「ビリー・ジーン」「今夜はビート・イット」に曝された私たちにとって、洋楽のスタンダードがマイケルだったのです。

というわけで、週末はyou tubeで「ひとりでマイケルを偲ぶ会」を行っていました。

2009年6月29日 (月)

手詰まり感の打開 その4 ケインズの処方箋と山岸市長のスローライフ

Photo

昨日、山本拓衆議院議員の勝山後援会役員会がご本人出席のもと行われました。

山本代議士も何かと渦中の人ですので、一連の騒動の説明にかなりの時間を割かれていましたが、出席者のひとりから次のような質問が。

「民主党は自民党がダメだという。それを受けて、自民党も民主党はダメだという。国民は、そんな水かけ論には飽き飽きしている。『この日本をどういう風に引っ張っていくのか』という明確なビジョンを出して欲しい。私たちが聞きたいのはそこなんだ」


もっともな話だな・・・と。
そして、その質問者の熱弁を聞きながら感じたのは、
「もっともな話だ。しかし、それを示すことは自民党にはできないだろう」

自民党だからできないのではありません。民主党もできないのです。仮にできるとしたら、日本共産党か維新政党・新風くらいのものでしょう。彼らは、政体そのものを変更しようとしているのですから。

実は、自民党は既にビジョンを出したことがあります。安倍晋三内閣のときに。

「美しい日本」
安倍元首相の説明不足もあったのでしょうが、国民の大半は単なるスローガンとしか思わなかったでしょう。当時の私もそう思っていました。
現行の体制の中で「明確なビジョン」を示そうと思うと、必然的に「美しい日本」のようなスローガンになってしまうのです。これはどうにもならないことです。

なぜ、「明確なビジョン」が「美しい日本」のようなスローガンになってしまうのか。それを解くキーワードが今回のテーマである、「ケインズの処方箋」です。




話を進める前に、もう一度、これまでの話をまとめてみましょう。

私たちは例えようもない閉塞感に囲まれています。その閉塞感は「私たちは何をしてよいのか。どこへ進めばよいのかがわからない」ことに原因があります。溢れんばかりのモノに囲まれて特に買いたいモノもなく、何となく日々を過ごしている。

村上龍は小説『
希望の国のエクソダス』で、中学生の口を借りてこう言います。
「この国には何でもあります。しかし希望だけがない」

資本主義という私たちの生活を規律する文化の中で、緩やかに私たちは朽ち果てているのではないか。そういう想いを持っている人は少なからずいらっしゃることでしょう。






さて、資本主義の発展によって豊かになればなるほど「人々は退屈する」と喝破したケインズは、同時に「ならば資本主義の代わりになるのものがあるのか。これを考えると、極端に困惑する」と率直に述べています。



ただ、ケインズはひとつの可能性として、選択肢のひとつを示しています。


豊かな社会においては、ローカルなもの、美しいもの、正しいものが求められる



ケインズは、この思想を「国がなすべきこと」という文脈で語りました。

前々回に述べたように、ケインズはグローバル化する国際経済に違和感を感じていました。投資家は、その性質上、最も利益の出るところを探します。これは当然のことです。しかし、全く見知らぬ海外の事業に加わり、見知らぬところの所有者になる。儲けさえ出ればそれで良し。出なかったすみやかに撤退する。これは倫理的に問題ではないのか?とケインズは問います。

ならば、グローバル経済の渦中で、国はローカルなものを守らねばならない。ケインズにとって、それはロンドン駅の美観であったり、郊外の田園風景であったり、快適な住宅環境などであり、それを国は守らねばならない。そのためにこそ公共投資をすべきなのだ・・・と。

ケインズはややもすると「公共投資の必要性を説いた経済学者」「公共投資による需要拡大」ばかりが先行しがちですが、彼にとっては「公共投資によって何を守るのか」の方がはるかに重要だったのです。

我が国の公共投資には、この視点が完全に抜け落ちていました。


Photo_2
東京日本橋です。私も東京に住み始めた頃に行って見て、あまりの無惨さにがっかりした思い出があります。

上を塞ぐ首都高。これが全国道路網の起点とは思えません。

日本橋だけではありません。国内の海岸線を囲むコンクリート防壁。全国のどこを見ても同じような町並み、国の公共投資の「方針のなさ」が現れています。




※上の写真は「
SBI不動産ガイドのスタッフブログ」からお借りしました。confident

さて、ケインズがいう「ローカルなもの、美しいもの、正しいものを守る」との趣旨は、国がそれらのことをすべきとして語られました。つまり、国家の責務としてです。


それを私たち市民レベルに当てはめるとどうなるのでしょうか。

・・・・そう。
エコミュージアムなんですね。

なんて唐突な、というか、ご都合主義的な・・・と思われた方もいらっしゃるでしょう。coldsweats01
いえ、その気持ちも十二分にわかります。

ちょっと、脱線するかもしれませんが、私がここに辿り着くまでの変遷を。




前々から、というよりも議員になる前から、私は大衆消費者社会の行く末がどうなるのかという危惧を持っていました。

大衆消費者社会。それはまさしくケインズがいうところの「豊かな社会」です。全ての人々が消費者として何かを買う。その中で、私たちはゲップが出てくるくらいのモノに囲まれ、もはや欲しいモノは何もない状況にまで到達しました。

欲しいモノはない。でも何かが足りない。

しかし、この大衆消費者社会は、あまりにもマクロ・巨視的な話で、正直なところこれをどうやって変えようかなどという話は皆目見当もつきませんでした。なぜなら、大衆消費社会からの脱却とは、人々の価値観を180度転換することを意味するからです。そのようなことができるはずがない・・・





さて、一方で山岸市長の進めるエコミュージアム。

これは元々、(社)勝山青年会議所が提言したこともあって、私にとっては実になじみ深いものです。しかし、私はこれまでエコミュージアムをまちづくりの手法として捉えてきました。この勝山のまちづくりをどうするのか、人づくりをどうするのかという視点です。

そして、山岸市長は第5期総合計画の方針として
 
スローライフ
を提唱されました。要するに、これまでの都市型の生活スタイルではなく、勝山独自のスタイルを模索しようということです。

今年の3月議会で、このスローライフを聞いたときには「市長、何か訳のわからないことを言い始めたな」と、正直思いました。
(ごめんなさい、市長coldsweats01

そのときは、そう思ったのです。
しかし、じっくりと考えてみると、これこそケインズが言っていた「ローカルなもの、美しいもの、正しいもの」そのものではないかと思い至ったのです。

私自身が、エコミュージアムに対して知らず知らず枠をかけて制限してしまったのですね。その枠を超えて一歩下がって見てみれば、エコミュージアムにはまだまだ可能性があったのでした。



ああ、そうか。そういうことか。山岸市長は、人々の意識を180度転換させようとしているのか、脱消費者社会を目指すのか・・・・これは、またトンでもないレベルでの話になってきた・・・・。




果たして、市長はそこまで狙ってスローライフと言っているのか。狙っているんです。

「閉塞感-大衆消費者社会-ローカルなもの-エコミュージアム-スローライフ」という一連の流れが出来たときに、私は全てが腑に落ちた気がしました。ストンと腹の中に収まった気分です。そこで、山岸市長がどのような意図でスローライフを持ち出したのかを尋ねてみたところ、やはりそういう意図だったんですね。
(さすがにケインズは出てきませんでしたが、別にそこは本筋とは関係ありません)


正直な感想を述べるなら、シャッポを脱ぐとはこのことです。脱帽です。



と、同時にこのスローライフが重大な問題点を抱えることにも気づきました。


それについては、次回に譲りましょう。


今回の話も長くなりました、お付き合いいただいた方には、感謝申し上げます。confident

2009年6月28日 (日)

東国原知事の動向

水防訓練から戻って、何気なくテレビを見ていると東国原知事の動向が取り上げられていました。

最近ニュースを見ていなかったモノで初耳だったのですが、coldsweats01 なにやら知事は国政に並々ならぬ関心がおありとのこと。

しかもTV局のインタビューに答えて、「宮崎県での改革路線は道筋をつけた。国政に関心がないわけではない」などと回答していました。

どうやら彼にとって、宮崎県知事というポストは「政治家東国原がのし上がっていくためのステップのひとつ」でしかないようです。改革は改革路線に道をつけた・つけないという次元で語られるものではありません。県民の目にも「改革は完了した」というところまでやり抜くことが最も難しいのです。
逆説的に言うならば、「改革路線に道をつけた。だからもうだいじょうぶ」と東国原知事が言うのであるならば、もはや東国原知事でなくともいいわけです。別な人を知事に据えれば良い。


これまでもマスコミへの露出が多い人ですが、それもこれも「宮崎県の知名度を上げたいがため」ということで納得できました。しかし、今回の騒動で何となく底が見えたような気がします。

この知事の同行を、当の宮崎県民はどのような想いで眺めているのでしょうか?

平成21年度 水防訓練

本日は朝7時より平成21年度水防訓練が行われました。


今回は中後区の皆さんにご協力をいただき、訓練を行います。




Photo

自然災害の際に、要援護者や高齢者・子供たちなどを迅速に非難していただくと同時に、健康状態のチェックも行います。








Photo_2
河川が氾濫した際に備えて、消防団・市役所職員・県土木職員による土嚢作成・土嚢工法の演習も行われました。

700個の土嚢があれよあれよというまに作られていく様は、見ていて壮観です。






Photo_3また、日赤奉仕団による炊き出しも行われました。毎年のことですが、朝早くからおにぎりを作るなど献身的に活動されています。






災害はないにこしたことはありません。しかし、万が一に備えて、市民・消防団・行政スタッフ・日赤奉仕団などの皆さんは準備に余念がありません。

本当にご苦労さまでした。

2009年6月26日 (金)

手詰まり感の打開 その3 シュンペーター

前回に引き続き、この「手詰まり感」「閉塞感」の打開について想うことを。


前回まで、資本主義には限界があることを経済学者たちが予言していたことについて述べました。ところが、リカードやマルクスは、このままでは資本主義は行き詰まるであろうと予測していたにもかかわらず、革新的な技術革新によって資本主義は生き延びます。


さて、ここでもうひとりの経済学者に登場願いましょう。




Photo_4
ヨーゼフ・アーロイス・シュンペーター(1883-1950)



オーストリアの経済学者で、彼の説は「イノベーション理論」と言われます。

これは、企業家(アントレプレナー)たちの行うイノベーション(革新)こそが資本主義を発展させるというものです。



さて、このシュンペーターは資本主義の未来をどのように捉えていたのでしょうか。




1936年1月。アメリカ農業大学院において、シュンペーターは「資本主義は生き延びうるか(Can capitalism survive?)」とのタイトルで講演を行います。

この講演は、次のような文言から始まります。
Ladies and Gentlemen. Can capitalism survive? No. I do not think it can
(紳士淑女の皆さん。資本主義は生き延びられるのでしょうか。いいえ、生き延びられません)

やはりシュンペーターも資本主義の未来を悲観的にとらえていました。しかし、その悲観論は実にユニークなものです。

さて、それを語る前に、ここでシュンペーターの言う「企業家」とはどのような人を指すのかについて少々。なぜなら、この「企業家」を誤解するとシュンペーターの資本主義論が全く訳のわからぬものになるからです。ちなみに、私も当初は誤解していました。bearing

企業家とは、一般的な感覚では「社長さん」です。しかし、慣行的な事務遂行をしている社長さんたちと企業家とをシュンペーターは明確に区別しました。

シュンペーターは、こういっています。
「起業者であることは職業ではなく、通常一般には永続する状態ではない」
つまり、社長を社長業としてやっているような人は企業家ではないと言うのです。
 金銭的な欲求からイノベーションをするような連中も企業家ではないとシュンペーターは言います。確かに彼らは豪奢な生活をしているが、金持ちになるためにやっているのでもないと。

ならば、シュンペーターにとって企業家とはどのようなタイプの人なのでしょうか。
 
①「私的帝国」ないしは「自己の王朝を建設しようとする夢想と意志」
 ②「勝利への意志」あるいは「成功を獲得しようとする意欲」
 ③創造の喜び

この3つが企業家を動かす動機だと彼は言うのです。


なるほど、もはや動物的な衝動ともいえる動機に突き動かされて、企業家たちは資本主義を発展させます。しかし・・・だからこそ、資本主義は衰退せざるをえないのだとシュンペーターは結論づけるのです。

理由は実に簡単です。経済成長を遂げた「豊かな社会」では、もはやリスクを覚悟して新たなイノベーションに挑もうとする「企業家精神」は薄れてくるからです。


余談ですが、各地の青年会議所(JC)でこのアントレプレナー(企業家)を育成しようという事業が行われています。しかし、JCがいうアントレプレナーとシュンペーターがいうアントレプレナーでは、ニュアンスが異なるように思います。シュンペーターならば、「そんなものは教育して出てくるようなものではない」と言うでしょう。本多宗一郎は教育によって出現したものではありません。JCのいうそれは、むしろ「起業家」といった側面が強いです。



・・・しかし、「自己の王朝を建設しようとする夢想と意志」とか「勝利への意志」とか、およそ経済学の枠を超えてしまった説明ですね。シュンペーターの業績が経済学でなく経営学の方に引き継がれているのもわかります。だって、これはもはや経済学の範疇に納まりません。

もっとも、シュンペーターの思想が狭義の経済学の枠内におさまらないのも無理はありません。なぜなら、彼にとって資本主義とは単なる経済制度のひとつという側面を超えて、文化そのものだったからです。
 文化とは私たちの行動を規定するものです。慣習と言っても言い変えることもできるでしょう。「私たちの行動を規定する」という意味ならば、資本主義はまさしく文化そのものです。
 例えば、資本主義の特徴のひとつである合理主義。この合理主義は、われわれの生活を規定しています。

資本主義は文化である。そして、その資本主義は資本主義であるがゆえに衰退する。文明論的に言えば、シュンペーターの思想はこのようになるのでしょう。



さて、ここまで来ると、われわれの持つ「停滞感」が見えてきたようにも思われます。


資本主義的な文化そのものが行き詰まってきているのです。

豊かな生活を目指してわれわれはここまでやってきました。しかし、溢れかえらんばかりのモノに囲まれたわれわれは行き先を喪失してしまったのです。

確かに、どんどん新しいモノは市場に出ています。液晶テレビ、地デジテレビ、新機能を備えた携帯電話・パソコン、環境に配慮した車などなど。
そこで、私は前回と同じ質問をしたいのです。
あなたは本当にそれが欲しいのですか」と。

本当に欲しいモノ、それがなければやっていけないモノなんて、もはやないのです。ならば、なぜそれを買うのでしょう。ひょっとしたら、一種の空虚感を紛らわせるためではないのでしょうか。新しいモノ、新奇なモノ、ただそれだけの理由でわれわれはモノを買っているのではないでしょうか。しかし、「新奇性」などというものは慣れてしまえば、別に目新しさを感じません。すると「もっと新しいモノを、もっと珍しいモノを」というある種の麻痺状態に陥ってしまわないでしょうか。





豊かな社会では、その豊かさゆえに人々は「退屈する」だろう
これがケインズの予想図です。

まさにわれわれはそこにまで達してしまったのです。


そうなると、資本主義に変わる別の文化をわれわれは見いださねばなりません。
そこで、例のケインズ論文の文句が再び顔を出してきます。

代わりがあるのかを考えると、われわれは極度に困惑してしまう

そうなのです。今のシステムはもう行き詰まっているのではないか。われわれは別の何かを模索しなければならないのではないか。
薄々、感づいていながらも「それじゃ、何をすればいいの?」というところで、われわれは手詰まりに陥っているのです。

この手詰まり感に対して、ケインズはもうひとつの可能性をわれわれに示しています。

それについては、次稿に譲ることにしましょう。



今回も長くなりました。お付き合いいただいた方には感謝申し上げます。confident



恐竜モニュメント

Photo_2

既にご存じの方も多いと思われますが・・・

恐竜モニュメントが国道416号線の荒土休憩所に出現しました。happy01


福井県も粋なことをしてくれます。good










しかし、何しろ大きい。




Photo_3






画面下の方に、うちの次男坊がいるのですが・・・わかります?








2009年6月25日 (木)

手詰まり感の打開 その2 資本主義の未来とケインズに想うこと

6月22日に「手詰まり感の打開」を書きました。そこでは、現在の閉塞感について記したのですが、前々からこの閉塞感の正体は何なのだろうかと考えています。



福井県立大学の図書館は、私にとってのパラダイスのようなところでして、文献が手に入らないときなどは、ここへ来て探すと面白いモノが見つかることが多いので、非常に重宝します。夜9時まで開いてますし。happy01









さて、ちょっとした縁で、目下のところ、ケインズの論文を読んでいます。県立大学図書館から借りてきました。



ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)

イギリスの経済学者です。最近の世界的経済不況で、再び脚光を浴びている「ケインズ経済学」の産みの親ですね。


200pxjohn_maynard_keynes_7 難しいことは抜きにして、この人の理論が「公共投資による需要拡大」を下支えしています。


おそらく、「古今東西で、最も影響力のあった経済学者を5人選べ」と言われたら、確実にケインズは入るでしょう。それくらいのインパクトをもたらしました。

(「3人選べ」と言われても入りそうな気がします。アダム・スミス、マルクス、ケインズで)



つまり、ケインズという人は現代資本主義の立役者みたいなところがあるのですが、この人は資本主義の未来について重要な示唆を残しています。



1933年7月に発表された論文「国家的自給(National Self-sufficiency)」において、ケインズはいわゆるグローバル化していく経済について、次のような感想を述べています。

The decadant international  but individualistic capitalism, in the hands of which we found ourselves after the War, is not a success.  It is not intelligent, it is not beautiful, it is not just, it is not virtuous- and it doesn't deliver the goods. In short, we dislike it and we are beginning to despise it. But when we wonder what to put in its place, we are extremely perplexed.

(第1次世界大戦後に手に入れた国際的ではあるものの個人主義的で退廃した資本主義は成功したとはいえない。それは知的でもなければ美しくもない。正しくもなければ道徳的でもない。つまり、そういった資本主義は価値をもたらさないのだ。端的に言うなら、われわれはそれを嫌悪していおり、軽蔑し始めている。しかし、代わりがあるのかを考えるとき、われわれは極度に困惑してしまう)

※訳は適当ですので、そこは突っ込まないでくださいcoldsweats01



思うに、われわれが抱いている「閉塞感」の最も根元にあるのは、このケインズの「代わりがあるのかを考えると、われわれは極度に困惑してしまう」という一節ではないでしょうか。

この困惑は、次の問いに集約されます。
「あなたは、これ以上何かを欲しいと思いますか?」

車を買ってみた、携帯電話も持った、冷蔵庫もテレビもクーラーも持った。これ以上欲しいモノはないという状況にまでわれわれは追い込まれています。

もちろん、買い換えの需要や新規製品に対する欲求はあるでしょう。しかし、昭和30年代の「テレビが欲しい」「冷蔵庫が欲しい」「電気洗濯機が欲しい」といったような強烈な衝動をわれわれは持ち得ないのです。

つまり、「何かが欲しいから私たちは頑張って働く」という展望を、もはやわれわれは描けなくなっているのです。戦後、人々の活動の理念であった「豊かな社会」とは、生活を彩るモノを揃えていくことでした。個人のレベルで考えるならば、それは車であり、衣服であり、携帯電話でありパソコンを身の回りに備えておくことでした。家庭では、電気洗濯機を買うことであり、冷蔵庫を買うことであり、クーラーを買うことでした。国家レベルでいうならば、道を整備することであり、体育館を設置することであり、新幹線を引くことでした。そういったモノを増やしていけば、われわれの生活は豊かになると考えられたのです。

しかし、われわれはゲップが出るくらいにモノに囲まれて、もはや「これ以上、本当に欲しいモノはありません」という状態に追い込まれています。


これはケインズに言わせれば当然のこととなるでしょう。ケインズは、社会が豊かになり人々の耐久消費財に対する物質的欲望が満たされてしまえば、もはや新規投資を行っても投資に見合う十分な収益が見込めない状況に陥るのではないかと考えていました。つまり、その状態にまで資本主義が進めば、投資そのものが意味を成さなくなります。それはすなわち、「資本主義の死」に他なりません。



こういった資本主義に対する見方は、何もケインズに始まったことではありません。


(注:ここからリカードの説明が続きますが、興味のない方は次の「注」まで飛んでもらっても結構です)




ディビット・リカード(1772-1823)


古典派経済学を代表するイギリスの経済学者ですが、この人は経済学者にしては珍しく経済実務で成功した人です。つまり、株の仲買人として証券取引の世界で大儲けし、42歳で引退した後は政界に打って出て華々しい活躍をしました。


Photo_3 さて、このリカード先生が熱心に取り組んだのは歴史に名高い「穀物法」です。高校生のときに世界史を習われた方ならば覚えていらっしゃることでしょう。あの穀物法。


当時のイギリスは世界最初の産業革命を成し遂げたこともあり「世界の工場」としての地位を確立しましたが、人工の拡大により穀物の輸入国になっていました。そこで、競争力の弱い農業部門、つまり旧来の地主層を保護するために輸入穀物に関税をかけたわけです。
(つまり、今の日本のコメと全く同じ状況)

これに対して、リカード先生は真っ向から反対します。その理由は2つ。
1つは、関税をかけて輸入価格を引き上げれば確かに地主層は保護されるだろう。しかし、安い穀物を国内に流通させれば、地主層以外の社会階級一般の人々に利益をもたらすではないか・・・というもの。

そして、もうひとつの理由が極めて重要な問題を引き起こします。

資本間の競争によって利潤率の低下傾向を説くアダム・スミスには賛成できないから

これはどういうことかと申しますと・・・経済学の祖であるアダム・スミスは「資本家と資本家が競争すれば、利潤率は下がる」と主張しました。これは、今のわれわれにもよく理解できます。Aという企業とBという企業が同一の事業で競争するならば、値引きや安売りなどで利益はどんどん少なくなっていくという構図です。

これに対して、リカード先生は「いや、産業全般の利益率が下がるのだ」と主張しました。なぜ、社会が発展し、資本が蓄積されると産業全般の利益率が下がるのか。これは説明すると、ちょっと長くなりそうなので、そういう風にリカード先生は主張したのだと納得してください。coldsweats01
重要なことは、リカード先生がそこを踏まえて描く資本主義の未来なのです。


①社会が発展し、資本が蓄積されると産業全般の利益率が下がる。
②しかし、利潤が存在する限り、資本は成長していく。(新規に投資がされるから)
③もっとも、新規資本が蓄積されても利益率低下は止まることはない。
④この過程は、利潤がゼロになるまで続く。
⑤利潤がゼロになったとき、資本蓄積は止まる。
⑥このとき、利潤はゼロであり、賃金は相変わらず生存水準であるにも関わらず、地代は最大になっている。
⑦この状態を定常状態と呼ぶ。

リカード先生は、一国の経済がこのような破滅的な未来を描くことを説き、その解決策を国際貿易に求めました。

先生が描いた未来像は、資本主義には限界があることを示したのです。



(注:ここまでがリカードの説明でした)



リカードが描く暗い未来像は、実はマルクスも共有していました。しかし、実際の世界はリカードやマルクスの予測をあっさりと裏切ったのです。

その原動力となったのは、大胆な技術革新でした。

20世紀とは、まさしく技術革新の時代です。フォードによる車の大量生産や、飛行機の発明、通信分野での劇的な革新技術(電話・インターネット)などが、新たな需要を喚起し、産業を引っ張ってきました。

しかし、果たしてこれら技術革新(イノベーション)は、資本主義を「限界のないもの」にしたのでしょうか。

そこについては、また次の稿に譲るとしましょう。

長々とした説明におつきあいいただき、ありがとうございました。

NHKに対して集団訴訟

NHKが視聴者から訴えられるという、トンデモない事態が発生しています。


4月5日に、日本の台湾統治を取り上げたNHKスペシャル「アジアの“一等国”」があまりにも偏向しすぎているというので、放送法や受信契約に違反する番組により精神被害を受けたとして、視聴者たちが25日にNHKに約8300万円の損害賠償を求める訴えを起こすことがわかったのです。

原告となる視聴者の数は、実に8300人。


私自身はこの番組を見ていなかったのでその内容について云々する資格はないのです。ですので、この番組のことが話題になるときは
「まあ、NHKのことですから偏向番組くらいは作るだろう」
程度に考えていました。

しかし、識者たちの話を聞いていると、並の偏向ぶりではなかったようで、台湾人であり台湾史研究の専門家の黄文雄教授も「事実がひとつもない」といたく憤慨されていました。

例えば、「台湾は漢民族」といった誤った認識。これは、「北海道は、古来より大和民族」と言うに等しく、台湾に関する基本的な知識すらない人間の台詞です。ちなみに、「台湾は漢民族」という台詞は、少しでも中国史・台湾史を知っている人間なら思いもしないものです。もしくは、こういった台詞を吐くのは、
 
中国共産党
なんですね。つまり、NHKは台湾についてまるっきり知らないで番組を制作したか、もしくは中国共産党の片棒を担いで作ったかのいずれであることを公に表明してしまったのです。

こういった誤った認識だけでなく、現地台湾人のインタビューを恣意的に編集し、日本の台湾統治がいかにも悪かったのだと印象づけようとしていることを黄教授は指摘しています。
加えて、教授は次のような報道のあり方は大問題だと指摘しています。
 
「日台戦争」
いつ日本と台湾は戦争をしたのでしょうか。このNHKの造語には、新たな歴史認識(中共寄りの)を感じます。





さて、そこで頭に来た人たちが集団提訴に踏み切ったというわけですが・・・まあ、これは左翼系市民団体の常套手段です。裁判所に訴えて、世間の耳目を集めるというのは。

そこで私が注目しているのは、NHKに対する集団訴訟をマスコミは取り上げるのでしょうか。おそらく週刊新潮・文春などの週刊誌メディアは取り上げることでしょう。しかし、TV局は取り上げないでしょうね。

マスコミなんて、人のことを叩くときだけは威勢が良いくせに、自分たちの業界のことになるとからっきしダメですから。

2009年6月23日 (火)

6月定例会 全員審査特別委員会

昨日は、6月定例会の全員審査特別委員会が行われました。ここでは、6月補正予算の審議を行います。

通年ですと、6月補正予算は一番楽な予算です。というのも、6月という時期を考えると4月から始まる新年度予算を執行し始めたばかりですので、補正をする必要性がまだ薄いのですね。

ところが、今回は国の大幅な追加補正予算が出たため、その関連予算を審議することとなりました。今回の国の補正の目的は緊急雇用です。したがって、市の6月補正でも緊急雇用が柱となっています。それに加えて、平成24年に全国環境自治体都市会議を誘致しようとする勝山市ですので、環境部門での強化を柱とした補正予算になっています。


昨日の予算審議は揉めに揉めて終了したのが午後6時でした。揉めた原因は、はたや記念館「ゆめお~れ勝山」にかかる設計者・建設業者の問題です。おそらく勘の良い方ならば、「ああ、あの問題か」とすぐにおわかりになることでしょう。この問題については、追々このブログでお話しすることもあるかと思います。

私が今回の補正で最も納得のいかなかった点は、「東山いこいの森」の工事費用が盛り込まれていた点です。

理事者側の説明では、東山いこいの森の設備が老朽化しており早急に修繕しなければならないところ、今回国の交付金がふんだんにおりてきたので、これを用いて修繕するのだということです。

一見すると、もっともなことのようにも思えます。東山いこいの森は一部設備が老朽化しており、訪れる人のことを思えば早急な対応が求められます。それ自体に異論はありません。国の金でできるのならば、それが一番ありがたいことも確かです。

ただ、そういったことを踏また上で、私が納得いかないことは、東山いこいの森が指定管理者制度に移行しているということなのです。

指定管理者制度とは、市が保有している物件を民間活力により運営していただくことで、より有効に利活用してもらおうという制度です。現在、市内では、勝山ニューホテル・温泉センター水芭蕉・市営温水プール・長尾山総合公園と東山いこいの森が指定管理者制度を導入しています。


通常、指定管理者制度に移行する際には、市と指定管理者との間で契約書を交わします。何年間を契約期間とするのか、どのような運営をするのかといった契約内容の中でも、最も重視されるのは、
 「指定管理料はいくらになるのか」
ということです。

市は指定管理者に対して指定管理料を支払います。つまり、維持・運営に最低限これくらいはかかるだろうという見込みですね。そこから、指定管理者の運営努力によって利益が出れば、それは指定管理者が取ってもらいます。利益を出す。この健全な方向が、サービスの向上につながります。
(もちろん、黒字を出すために安易な首切りなどをしないように十分なチェックは求められます)




このように、、指定管理者契約を結ぶ際には様々な可能性を考えて契約を結び、議会の議決を得るのですが、今回の東山いこいの森ではその精神が踏みにじられていると私は感じました。

指定管理者契約を結んだ後に、「○○の修繕が必要です」「××を直します」とどんどん追加で予算を組んでいくのでは、当初に結んだ指定管理者契約の意味がありません。

極端な話、議会には「Aという建物の指定管理者契約は、契約にかかる修繕費を込みで2000万円です」と説明して議決を得た後で、修繕費・修繕費と追加していって最終的には5000万円かかりましたということすらあり得るのです。

「東山いこいの森は修繕が必要である」
「指定管理者契約を結んでも、このままの状態で指定管理者に渡したのでは、指定管理者に気の毒である」
と理事者側が考えるのはもっともな話です。ならば、なぜ指定管理者契約を結ぶ際に「これからかかるであろう修繕の全体計画」を示さなかったのでしょうか。

元々、市が直営で運営したとしても修繕費はかかるのです。それら修繕費を加えてもなお、民間の団体にしてもらった方がサービスが良くなるというのが、指定管理者制度の趣旨です。




私はこれまでも指定管理者制度の改善を求めてきました。

温泉センター水芭蕉の指定管理者移行で揉めていたときに、私は担当常任委員会であった産業福祉委員会の委員長でした。そのときに、指定管理者契約のスケジュールがタイト過ぎることが揉める原因であることを理事者側に説明し、その改善を求めました。

具体的に言えばこういうことです。

その当時の、指定管理移行スケジュールは次のようなものでした。
   12月定例会・・・温泉センター水芭蕉を指定管理制度にする条例変更
   1月~2月・・・・・指定管理者を募集・業者決定
   3月定例会・・・・業者決定を受けて指定管理者契約を議会にて議決
   4月1日・・・・・・・指定管理者業務開始

これでは事実上、議会は指定管理者契約を承認せざるを得なくなります。なぜなら、4月からの業務開始を目指して業者さんは準備を進めているのです。
 「もうすでに、市内の業者さんは準備を始めていますので」
と言われては、議会としても否決することもできません。

それで、このスケジュールを見直すように求めた結果、現在ではゆとりを持ったスケジュールに変更されました。

このように、理事者と市議会との間で、指定管理者制度をより有効にすべく様々な取り組みがされてきたのですが、今回の東山いこいの森の一件で、それを踏みにじられたような気分がしてなりません。

実に残念です。