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2009年6月25日 (木)

手詰まり感の打開 その2 資本主義の未来とケインズに想うこと

6月22日に「手詰まり感の打開」を書きました。そこでは、現在の閉塞感について記したのですが、前々からこの閉塞感の正体は何なのだろうかと考えています。



福井県立大学の図書館は、私にとってのパラダイスのようなところでして、文献が手に入らないときなどは、ここへ来て探すと面白いモノが見つかることが多いので、非常に重宝します。夜9時まで開いてますし。happy01









さて、ちょっとした縁で、目下のところ、ケインズの論文を読んでいます。県立大学図書館から借りてきました。



ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)

イギリスの経済学者です。最近の世界的経済不況で、再び脚光を浴びている「ケインズ経済学」の産みの親ですね。


200pxjohn_maynard_keynes_7 難しいことは抜きにして、この人の理論が「公共投資による需要拡大」を下支えしています。


おそらく、「古今東西で、最も影響力のあった経済学者を5人選べ」と言われたら、確実にケインズは入るでしょう。それくらいのインパクトをもたらしました。

(「3人選べ」と言われても入りそうな気がします。アダム・スミス、マルクス、ケインズで)



つまり、ケインズという人は現代資本主義の立役者みたいなところがあるのですが、この人は資本主義の未来について重要な示唆を残しています。



1933年7月に発表された論文「国家的自給(National Self-sufficiency)」において、ケインズはいわゆるグローバル化していく経済について、次のような感想を述べています。

The decadant international  but individualistic capitalism, in the hands of which we found ourselves after the War, is not a success.  It is not intelligent, it is not beautiful, it is not just, it is not virtuous- and it doesn't deliver the goods. In short, we dislike it and we are beginning to despise it. But when we wonder what to put in its place, we are extremely perplexed.

(第1次世界大戦後に手に入れた国際的ではあるものの個人主義的で退廃した資本主義は成功したとはいえない。それは知的でもなければ美しくもない。正しくもなければ道徳的でもない。つまり、そういった資本主義は価値をもたらさないのだ。端的に言うなら、われわれはそれを嫌悪していおり、軽蔑し始めている。しかし、代わりがあるのかを考えるとき、われわれは極度に困惑してしまう)

※訳は適当ですので、そこは突っ込まないでくださいcoldsweats01



思うに、われわれが抱いている「閉塞感」の最も根元にあるのは、このケインズの「代わりがあるのかを考えると、われわれは極度に困惑してしまう」という一節ではないでしょうか。

この困惑は、次の問いに集約されます。
「あなたは、これ以上何かを欲しいと思いますか?」

車を買ってみた、携帯電話も持った、冷蔵庫もテレビもクーラーも持った。これ以上欲しいモノはないという状況にまでわれわれは追い込まれています。

もちろん、買い換えの需要や新規製品に対する欲求はあるでしょう。しかし、昭和30年代の「テレビが欲しい」「冷蔵庫が欲しい」「電気洗濯機が欲しい」といったような強烈な衝動をわれわれは持ち得ないのです。

つまり、「何かが欲しいから私たちは頑張って働く」という展望を、もはやわれわれは描けなくなっているのです。戦後、人々の活動の理念であった「豊かな社会」とは、生活を彩るモノを揃えていくことでした。個人のレベルで考えるならば、それは車であり、衣服であり、携帯電話でありパソコンを身の回りに備えておくことでした。家庭では、電気洗濯機を買うことであり、冷蔵庫を買うことであり、クーラーを買うことでした。国家レベルでいうならば、道を整備することであり、体育館を設置することであり、新幹線を引くことでした。そういったモノを増やしていけば、われわれの生活は豊かになると考えられたのです。

しかし、われわれはゲップが出るくらいにモノに囲まれて、もはや「これ以上、本当に欲しいモノはありません」という状態に追い込まれています。


これはケインズに言わせれば当然のこととなるでしょう。ケインズは、社会が豊かになり人々の耐久消費財に対する物質的欲望が満たされてしまえば、もはや新規投資を行っても投資に見合う十分な収益が見込めない状況に陥るのではないかと考えていました。つまり、その状態にまで資本主義が進めば、投資そのものが意味を成さなくなります。それはすなわち、「資本主義の死」に他なりません。



こういった資本主義に対する見方は、何もケインズに始まったことではありません。


(注:ここからリカードの説明が続きますが、興味のない方は次の「注」まで飛んでもらっても結構です)




ディビット・リカード(1772-1823)


古典派経済学を代表するイギリスの経済学者ですが、この人は経済学者にしては珍しく経済実務で成功した人です。つまり、株の仲買人として証券取引の世界で大儲けし、42歳で引退した後は政界に打って出て華々しい活躍をしました。


Photo_3 さて、このリカード先生が熱心に取り組んだのは歴史に名高い「穀物法」です。高校生のときに世界史を習われた方ならば覚えていらっしゃることでしょう。あの穀物法。


当時のイギリスは世界最初の産業革命を成し遂げたこともあり「世界の工場」としての地位を確立しましたが、人工の拡大により穀物の輸入国になっていました。そこで、競争力の弱い農業部門、つまり旧来の地主層を保護するために輸入穀物に関税をかけたわけです。
(つまり、今の日本のコメと全く同じ状況)

これに対して、リカード先生は真っ向から反対します。その理由は2つ。
1つは、関税をかけて輸入価格を引き上げれば確かに地主層は保護されるだろう。しかし、安い穀物を国内に流通させれば、地主層以外の社会階級一般の人々に利益をもたらすではないか・・・というもの。

そして、もうひとつの理由が極めて重要な問題を引き起こします。

資本間の競争によって利潤率の低下傾向を説くアダム・スミスには賛成できないから

これはどういうことかと申しますと・・・経済学の祖であるアダム・スミスは「資本家と資本家が競争すれば、利潤率は下がる」と主張しました。これは、今のわれわれにもよく理解できます。Aという企業とBという企業が同一の事業で競争するならば、値引きや安売りなどで利益はどんどん少なくなっていくという構図です。

これに対して、リカード先生は「いや、産業全般の利益率が下がるのだ」と主張しました。なぜ、社会が発展し、資本が蓄積されると産業全般の利益率が下がるのか。これは説明すると、ちょっと長くなりそうなので、そういう風にリカード先生は主張したのだと納得してください。coldsweats01
重要なことは、リカード先生がそこを踏まえて描く資本主義の未来なのです。


①社会が発展し、資本が蓄積されると産業全般の利益率が下がる。
②しかし、利潤が存在する限り、資本は成長していく。(新規に投資がされるから)
③もっとも、新規資本が蓄積されても利益率低下は止まることはない。
④この過程は、利潤がゼロになるまで続く。
⑤利潤がゼロになったとき、資本蓄積は止まる。
⑥このとき、利潤はゼロであり、賃金は相変わらず生存水準であるにも関わらず、地代は最大になっている。
⑦この状態を定常状態と呼ぶ。

リカード先生は、一国の経済がこのような破滅的な未来を描くことを説き、その解決策を国際貿易に求めました。

先生が描いた未来像は、資本主義には限界があることを示したのです。



(注:ここまでがリカードの説明でした)



リカードが描く暗い未来像は、実はマルクスも共有していました。しかし、実際の世界はリカードやマルクスの予測をあっさりと裏切ったのです。

その原動力となったのは、大胆な技術革新でした。

20世紀とは、まさしく技術革新の時代です。フォードによる車の大量生産や、飛行機の発明、通信分野での劇的な革新技術(電話・インターネット)などが、新たな需要を喚起し、産業を引っ張ってきました。

しかし、果たしてこれら技術革新(イノベーション)は、資本主義を「限界のないもの」にしたのでしょうか。

そこについては、また次の稿に譲るとしましょう。

長々とした説明におつきあいいただき、ありがとうございました。

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