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2009年6月29日 (月)

手詰まり感の打開 その4 ケインズの処方箋と山岸市長のスローライフ

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昨日、山本拓衆議院議員の勝山後援会役員会がご本人出席のもと行われました。

山本代議士も何かと渦中の人ですので、一連の騒動の説明にかなりの時間を割かれていましたが、出席者のひとりから次のような質問が。

「民主党は自民党がダメだという。それを受けて、自民党も民主党はダメだという。国民は、そんな水かけ論には飽き飽きしている。『この日本をどういう風に引っ張っていくのか』という明確なビジョンを出して欲しい。私たちが聞きたいのはそこなんだ」


もっともな話だな・・・と。
そして、その質問者の熱弁を聞きながら感じたのは、
「もっともな話だ。しかし、それを示すことは自民党にはできないだろう」

自民党だからできないのではありません。民主党もできないのです。仮にできるとしたら、日本共産党か維新政党・新風くらいのものでしょう。彼らは、政体そのものを変更しようとしているのですから。

実は、自民党は既にビジョンを出したことがあります。安倍晋三内閣のときに。

「美しい日本」
安倍元首相の説明不足もあったのでしょうが、国民の大半は単なるスローガンとしか思わなかったでしょう。当時の私もそう思っていました。
現行の体制の中で「明確なビジョン」を示そうと思うと、必然的に「美しい日本」のようなスローガンになってしまうのです。これはどうにもならないことです。

なぜ、「明確なビジョン」が「美しい日本」のようなスローガンになってしまうのか。それを解くキーワードが今回のテーマである、「ケインズの処方箋」です。




話を進める前に、もう一度、これまでの話をまとめてみましょう。

私たちは例えようもない閉塞感に囲まれています。その閉塞感は「私たちは何をしてよいのか。どこへ進めばよいのかがわからない」ことに原因があります。溢れんばかりのモノに囲まれて特に買いたいモノもなく、何となく日々を過ごしている。

村上龍は小説『
希望の国のエクソダス』で、中学生の口を借りてこう言います。
「この国には何でもあります。しかし希望だけがない」

資本主義という私たちの生活を規律する文化の中で、緩やかに私たちは朽ち果てているのではないか。そういう想いを持っている人は少なからずいらっしゃることでしょう。






さて、資本主義の発展によって豊かになればなるほど「人々は退屈する」と喝破したケインズは、同時に「ならば資本主義の代わりになるのものがあるのか。これを考えると、極端に困惑する」と率直に述べています。



ただ、ケインズはひとつの可能性として、選択肢のひとつを示しています。


豊かな社会においては、ローカルなもの、美しいもの、正しいものが求められる



ケインズは、この思想を「国がなすべきこと」という文脈で語りました。

前々回に述べたように、ケインズはグローバル化する国際経済に違和感を感じていました。投資家は、その性質上、最も利益の出るところを探します。これは当然のことです。しかし、全く見知らぬ海外の事業に加わり、見知らぬところの所有者になる。儲けさえ出ればそれで良し。出なかったすみやかに撤退する。これは倫理的に問題ではないのか?とケインズは問います。

ならば、グローバル経済の渦中で、国はローカルなものを守らねばならない。ケインズにとって、それはロンドン駅の美観であったり、郊外の田園風景であったり、快適な住宅環境などであり、それを国は守らねばならない。そのためにこそ公共投資をすべきなのだ・・・と。

ケインズはややもすると「公共投資の必要性を説いた経済学者」「公共投資による需要拡大」ばかりが先行しがちですが、彼にとっては「公共投資によって何を守るのか」の方がはるかに重要だったのです。

我が国の公共投資には、この視点が完全に抜け落ちていました。


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東京日本橋です。私も東京に住み始めた頃に行って見て、あまりの無惨さにがっかりした思い出があります。

上を塞ぐ首都高。これが全国道路網の起点とは思えません。

日本橋だけではありません。国内の海岸線を囲むコンクリート防壁。全国のどこを見ても同じような町並み、国の公共投資の「方針のなさ」が現れています。




※上の写真は「
SBI不動産ガイドのスタッフブログ」からお借りしました。confident

さて、ケインズがいう「ローカルなもの、美しいもの、正しいものを守る」との趣旨は、国がそれらのことをすべきとして語られました。つまり、国家の責務としてです。


それを私たち市民レベルに当てはめるとどうなるのでしょうか。

・・・・そう。
エコミュージアムなんですね。

なんて唐突な、というか、ご都合主義的な・・・と思われた方もいらっしゃるでしょう。coldsweats01
いえ、その気持ちも十二分にわかります。

ちょっと、脱線するかもしれませんが、私がここに辿り着くまでの変遷を。




前々から、というよりも議員になる前から、私は大衆消費者社会の行く末がどうなるのかという危惧を持っていました。

大衆消費者社会。それはまさしくケインズがいうところの「豊かな社会」です。全ての人々が消費者として何かを買う。その中で、私たちはゲップが出てくるくらいのモノに囲まれ、もはや欲しいモノは何もない状況にまで到達しました。

欲しいモノはない。でも何かが足りない。

しかし、この大衆消費者社会は、あまりにもマクロ・巨視的な話で、正直なところこれをどうやって変えようかなどという話は皆目見当もつきませんでした。なぜなら、大衆消費社会からの脱却とは、人々の価値観を180度転換することを意味するからです。そのようなことができるはずがない・・・





さて、一方で山岸市長の進めるエコミュージアム。

これは元々、(社)勝山青年会議所が提言したこともあって、私にとっては実になじみ深いものです。しかし、私はこれまでエコミュージアムをまちづくりの手法として捉えてきました。この勝山のまちづくりをどうするのか、人づくりをどうするのかという視点です。

そして、山岸市長は第5期総合計画の方針として
 
スローライフ
を提唱されました。要するに、これまでの都市型の生活スタイルではなく、勝山独自のスタイルを模索しようということです。

今年の3月議会で、このスローライフを聞いたときには「市長、何か訳のわからないことを言い始めたな」と、正直思いました。
(ごめんなさい、市長coldsweats01

そのときは、そう思ったのです。
しかし、じっくりと考えてみると、これこそケインズが言っていた「ローカルなもの、美しいもの、正しいもの」そのものではないかと思い至ったのです。

私自身が、エコミュージアムに対して知らず知らず枠をかけて制限してしまったのですね。その枠を超えて一歩下がって見てみれば、エコミュージアムにはまだまだ可能性があったのでした。



ああ、そうか。そういうことか。山岸市長は、人々の意識を180度転換させようとしているのか、脱消費者社会を目指すのか・・・・これは、またトンでもないレベルでの話になってきた・・・・。




果たして、市長はそこまで狙ってスローライフと言っているのか。狙っているんです。

「閉塞感-大衆消費者社会-ローカルなもの-エコミュージアム-スローライフ」という一連の流れが出来たときに、私は全てが腑に落ちた気がしました。ストンと腹の中に収まった気分です。そこで、山岸市長がどのような意図でスローライフを持ち出したのかを尋ねてみたところ、やはりそういう意図だったんですね。
(さすがにケインズは出てきませんでしたが、別にそこは本筋とは関係ありません)


正直な感想を述べるなら、シャッポを脱ぐとはこのことです。脱帽です。



と、同時にこのスローライフが重大な問題点を抱えることにも気づきました。


それについては、次回に譲りましょう。


今回の話も長くなりました、お付き合いいただいた方には、感謝申し上げます。confident

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