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2009年7月に作成された記事

2009年7月 5日 (日)

落ち着いて!

うちの子供たちは、ウルトラマンが大好きです。happy01

さて、そこでちょっとしたお土産にプレステの
「ウルトラマン ファイティングエボリューション3」
Photo_4というゲームを買ってみました。

まあ、大きくなったといっても5歳児だから、ゲームにそんなに興味は持たないだろう・・・と思っていた私は甘かった。crying

的確に何かを射抜いたようで、はやくもゲーマーと化してしまいました。



これはいかん、ということで、嫁と協議の上、
「ウルトラマンは30分だけ!」
という約束でさせています。
(ゲームが好きというよりも、ウルトラマンが好きなんですね)



さて、努力と精進の結果、長男坊はみょうにウルトラマンの扱い方がうまくなりました。ゲームの中には「対戦モード」があります。
「パパ、戦おう!」
と無謀にも私に挑んできたりします。

最初の頃は、てきとーにあしらっていれば勝てました。まあ、たまには花を持たせて勝たせてやったりもしていたのですが、最近では気を抜くとやられかねません。

そうなると、こちらも黙ってはいられません。
「バーチャ世代をなめるなよ!」

バーチャファイターやりたさにセガ・サターンを買った身としては、対戦ゲームで5歳児に負けるわけにはいきません。


さて、本日も、長男坊が使うウルトラマン・エースを相手にしていたときのこと。

「パパ、パパ、おちついて。おちついて」

いかん。大人げなかった。coldsweats01




クリーンアップ九頭竜川事前説明会

7月3日に、クリーンアップ九頭竜川事前説明会が市民活動センターにて行われました。

Photo_2
九頭竜川をきれいにしようというクリーンアップ九頭竜川も、一番最初の「九頭竜川を創るのは私たち」から始まって、今年で5年目になります。

一番最初は、会場も小舟渡会場だけでした。それを考えると隔世の感があります。


私はJCは卒業しましたが、一市民としてできるだけ準備等には参加していきたいと思います。

何しろ、JC単体で実施するには事業規模が大きくなりすぎていますから。


山内委員長、頑張ってください。

2009年7月 1日 (水)

手詰まり感の打開 その5 構造改革が必然的にもたらす生活不安

もう5回目になる「手詰まり感の打開」ですが、今回はちょっと脱線して構造改革について。





Photo 猪瀬直樹

小泉内閣の行革断行評議会会員・道路公団民営化委員として行革・民営化の中心に位置し、現在は東京都副知事をつとめる人です。






この猪瀬直樹が、日経BPネットにて小泉改革の正当性を主張しています。

それでは、記事を読んでみましょう。全文は
こちらから


来る総選挙を前に、自民党は補正予算でバラマキ、民主党も高速道路無料化などとバラマキを主張し、異口同音に「小泉改革路線を修正する」という。おかしくないか。所得格差やいわゆる“派遣切り”が社会問題になっているのは、「改革がみんないけなかったからだ」という風潮がつづいている。つまり、「小泉改革が格差をつくった」という間違ったステレオタイプがある。どこでそういうステレオタイプができたのかを振り返りながら、その謎解きをしてみたい。

僕自身も、「構造改革がみんないけなかった」という批判の矢面に立たされたことがある。副知事に就任して間もない2007年9月26日、都議会で共産党議員から次のような質問があった。
「構造改革路線によって、必死に働いても生活保護世帯以下の収入しか得ることのできない人が大量に生まれている。それでも自己責任の問題と片付けてよいのか」
 これに対して、僕は2005年12月23日付の赤旗を根拠に反論した。
当時の赤旗は、「小泉改革が格差をつくった」などという乱暴な言い方はしていなかった。客観的なデータを提示して、格差問題を論じていた。1面で「貧困率 10年で倍加」と見出しを打ち、「OECD(経済協力開発機構)の比較調査では、日本の貧困率は、15.3%に達しています。10年ほど前8%台だったのが、約2倍に増加しています」と記している。

僕は、共産党議員に向かって、次のように答えた。
「構造改革が始まったのは2001年。貧困の問題が生じたのはバブル崩壊後の『失われた10年』と呼ばれる時期であり、構造改革によってワーキングプアが発生したわけではない。赤旗を読んでから質問してください」
 議場は爆笑と拍手につつまれた。
バブル崩壊後に貧困率(発展途上国の絶対的貧困とは違う概念)が増えたのは、不況とグローバル化が原因だ。不況で1995年から2000年くらいのあいだに就職氷河期を体験した世代が、正社員に比べて賃金の安い非正規労働者になった。一方で、経済がグローバル化して、中国などの安い賃金に引っ張られる形で、国内の単純労働者の賃金が低下した。

 だからこそ、フラット化する世界経済の流れに対応するために、構造改革が必要とされたのである。民営化や規制緩和によって、産業構造を転換していかなければ、貧困問題はますます悪化する。

             (下線部 松村)

     
      (中略)

小泉政権では、「大きな政府か小さな政府か」というキャッチフレーズが叫ばれた。小泉改革が対象としたのは、「肥大化した官業をつくりあげた(大きな)政府」だった。雇用保険などのセーフティネットを食い物にする霞が関を打倒して、無駄のない「小さな政府」と、競争のために必要なセーフティネットを充実させるのが、構造改革である。

 小泉さんが首相になる以前、いまから10年くらい前に、議員会館の会議室で開かれた超党派の勉強会に講師として招かれたことがある。小泉さんが呼びかけた、郵政民営化の勉強会だった。出席していた30人から40人の議員のうち、6~7割が民主党だったので、僕は「民主党の方が多いじゃないですか」と皮肉ったら、小泉さんは笑って「うん、いいんだよ」と答えた。2002年秋、暴漢に殺された石井紘基さんもいた。小泉さんと民主党の改革派は同じ主張だったのである。

 道路公団民営化や郵政民営化は実現できたけれども、改革は道半ばだ。「大きな政府」は、まだまだ小さくなっていない。つぎの政権が改革を引き継いでくれないといけないのに、民主党は「改革がみんないけなかった。郵政民営化も間違っていた」などと言う。ともに改革を目指していた10年前の民主党はどこに行ったのだろうか。

 僕が3月に書いた「小泉改革批判への大反論 セーフティネットを壊したのは守旧派だ」(『Voice』2009年4月号)には、大きな反響があった。わずか数年で、どうして新聞も政党も「改革反対」になっているのか、みんなが不思議に思っている。サイレントマジョリティは、簡単に考えをひっくり返らせていない。振れが大きいのは、自民・民主の二大政党とメディアなのである。

全文は長いので、途中は省略させてもらいました。途中で朝日新聞に対する嫌みが続きます。詰まるところ、猪瀬直樹は「あんたら小泉構造改革に諸手をあげて賛成していたくせに、今になったら大反対ってどういうことよ?」と言いたいのでしょう。

その気持ちはよくわかります。「小泉が全てをダメにした」と断罪するマスコミは、小泉政権の渦中では構造改革の旗を振っていました。その節操のなさには、あきれます。






「理念なき構造改革」がもたらした負の遺産は確かにあります。


猪瀬直樹が言う「フラット化する世界」とは、まさしくグローバル経済に他なりません。これは1930年代にケインズが「私はそれを軽蔑する」とまで言い切った高度資本主義の発展型です。


さて、資本主義の中心をなすものは、当たり前ですが「資本」です。この資本は、利益を出しやすい部分に集まるという当たり前の性質を持っています。


その利益を出しやすい部分とはどういったところでしょう。新しいところ、つまり「新部門」です。
(敢えて「新部門」と書かないのは、資本主義文化の中では人々は常に新しいモノ、新奇なモノを求める傾向にあるからです)


例えば、携帯電話を考えてみましょう。携帯電話は、人々の驚きをもって迎えられました。当初は存在自体が驚きだったのです。しかし、人々はそれに慣れてしまうと、次の付加価値を求めました。次にやってきたのはメールでした。それまでは直接電話でしゃべるしかなかった人々は、メールの便利さに驚きます。しかし、それも慣れてしまえば、次の付加価値をつけざるをえません。その次にやってきたのは、「写メ」でした。カメラを携帯につけるという発想。ここから携帯は、色々なモノがつくようになります。


このように、利益を出しやすい、つまり「売れる」商品は常に先端を走っている「新規部門」です。



ならば、利益を生まない産業はどうなるのでしょう。「新奇部門」が利益を生む分野ならば、利益を生まない「非・新規部門」。つまり、ありきたりのモノです。それは日常製品であったり、伝統的な工芸であったりします。日常生活に密着した、必要不可欠のモノ。それらは、需要こそ定常的にあるものの、大きな利益を生む産業ではありません。


仮に、それら産業の中で大きな利益を生む会社があったならば、それらは業態そのものが「新奇」なのです。ダイソーのような「100円均一ショップ」などはその典型例です。もしくは、独占的企業であるか。そうでもなければ、大きな利益を生むことはできないのです。



日常生活に密着した部門で利益を生むことが困難になれば、これら商品の供給者たちは、徐々に市場から撤退していくことでしょう。そうなれば、それら一部は海外からの輸入に頼らざるをえなくなります。下手すると、市場からその産業そのものが消滅することすらあり得ます。



Photo_2
ローバート・ライシュはこの書で、重要な問題提起をしています。

私たちは「資本家」「企業家」「サラリーマン」として生きていると同時に、「消費者」でもあり、「労働者」でもある・・・と。









 これは極めて重要な指摘です。資本の流れが「新規部門」「利益の出る部門」へと流れ込む結果として、利益の出ない部門から資本は撤退する。これは「資本家」「企業家」「サラリーマン」としては正しい選択です。しかしながら、「消費者」「労働者」「生活者」として、それは正しいのでしょうか。農業・林業・医療・教育・福祉といった、いわゆる「金にならない部門」は、人々の生活を支える役割を果たしています。こういった社会的安定をもたらす部門は利潤原理によって徐々に弱くなっていくのではないでしょうか。


 資本主義的発展という文脈で「豊かな社会」を語るとき、その経済成長を永続させようとするならば、社会的安定部門で用いられていた資本をも「新規部門」に用いねばなりません。その振り分けを正当化する理由が「構造改革」であり新自由主義のイデオロギーだったように思えます。


私が冒頭で「
理念なき構造改革」と述べた理由もここにあります。

日本が戦後の痛手から抜け出ようとするとき、そして高度経済成長期にあったとき、資本主義の発展は人々の生活を豊かにすることを意味しました。人々の生活が豊かになることは、そのまま社会的安定に直結しました。つまり、この段階では「資本主義の発展」と「社会的安定」は何ら矛盾しなかったのです。

 ところが資本主義の発展と社会的安定は、いつの間にか齟齬を生じるようになりました。「景気が回復すれば」という切実な願いを国民は持っています。無論、私も。卒業しても就職できない若者たち。低賃金で働く派遣労働者。低い年金のみで暮らさねばならぬ高齢者。仕事がないために苦しい経営者。こういった人々を生み出したのは、社会的安定資本を振り分けていった構造改革の結果です。
 そして、それ以上に問題なのは「資本を振り分けた後に、日本はどのようになるのか」といった理念を一切示さなかったことでしょう。