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2009年12月17日 (木)

小沢一郎の暴走を見ていて真剣に考えていることがあります。



おそらくこのブログをご覧になる皆様のなかには、自民党支持者の方もいらっしゃることでしょう。民主党支持者の方もいらっしゃるでしょう。公明党支持者も共産党支持者もいらっしゃることでしょう。

これから私が申し上げることは、そういった「政党の支持」という枠組みを超えて考えていただきたいのです。





かつて小沢一朗は
「国会と内閣を押さえてしまえば、アメリカの大統領よりも強大な権限を持つ」と喝破したと記憶しています。もちろん、権力の絶対量及びその波及力において合衆国大統領を超えることはありませんが、日本で二権を掌握する者は権力の集中度において合衆国大統領を凌ぐのです。


 民主党は小泉政権下の自民・公明を「数によるファシズム」だと非難していましたが、自民党には歴史的に派閥の力学が存在しているだけまだましだったのかもしれません。民主内にはそれすら存在せず、小沢ひとりがいるだけです。まさに小沢一郎は合法的にこの国を掌握したといっても良いでしょう。



 議院内閣制度は全体主義に対する防波堤だとはよく言われるところです。しかしながら、この国の議院内閣制度は小沢一郎という「首領様」を「合法的」に作り出してしまった。私たちはこの点をもう少し重要視すべきなのかもしれません。



 私が問いたいのは「小沢一郎がやったこと」「小沢一郎がやろうとすること」ではありません(それはそれで大問題なのですが)。
「なぜ小沢一郎のような存在を生み出したのか」を私たち国民は考えねばならないということです。私たちは民主制度においてひとりのスーパースターを渇望することの危険性を語ってきたはずです。そのようなスーパースターは「君子豹変」すれば、ヒトラーになりかねない。だから、権力を分散し個人に権力を集中させないシステムを必要とするのだと。しかしながら、眼前に繰り広げられている光景は、私たちがあれほど危険視してきたものではありませんか。制度そのものがおかしいのか、それとも議会のあり方が間違っていたのか、選挙制度が誤っていたのか、国民の意識が問題なのか、マスコミなのか…それらを検証し、考えていかねばならないと思うのです。




こういったときに役立つのは歴史です。人間なんて時を重ねようともやることは大抵同じですから。

おおらく昭和初期の日本の歴史が私たちにとって、とても有益なものになうでしょう。政権交代を熱望する声、政党政治に対する失望、大政翼賛化していくマスコミ等々、昭和初期の状況と私たちを取り巻く環境とは驚くほどの相似をなしています。

ただ、残念なことに、私たちは戦前の歴史を「悪かった」の黒一色で塗りつぶしてしまいました。「歴史を100%美化するのか」「とにかく日本は悪かった」といった二者択一な歴史観で考えるのではなく、もう一度、私たちは戦前の日本が辿ってきた道程を振り返るときに来ています。

「このまま日本が進めば、再び戦争への道を進むと言うのか」
違います。私が申し上げたいのは、昭和初期の国内情勢と今の私たちが相似をなしているということです。

下手すると、当時の日本人よりも私たちの方が劣っているのかもしれません。私たちの先達たちは曲がりなりにも、「出遅れたアジアの三流国家」から苦心惨憺しながら一等国家へ歩を進めた実績と矜持がありました。

唯一、私たちが先達たちに勝っている点があるとするならば、「彼らが苦労し乗り越えようとした歴史」を私たちは知ることができる。その一点なのです。




皆さんも、もう一度歴史を振り返ってみてください。そして、小沢一郎のような存在が、自由主義そして民主制度にとってどれほど危険なものかを確認してください。






コメント

こんにちは

続きを期待しています。

・600人の民主党訪中団
・天皇陛下と習近平・中国国家副主席との会見
・「みんなで行こうZEツアー」
等についても読んでみたいと思います

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