KDDIが3年前から「ライフPod」の開発を進めているそうです。
この「ライフPod」は、カメラ、各種コードリーダー、電子マネー、時計、GPSなど携帯電話の付属機能を活用して、個人の記録を収集するものです。
大まかに言うならば、自分の買ったもの、調べたこと、行った場所などの行動記録を逐一記録して、自動的に系統だった“生活記録”として蓄積するものとなるのでしょう。
こういった発想は、最近になって誕生したのではありません。
コンピューターの集積が飛躍的に高まり小型化・軽量化が進んだ結果、「コンピューターと付属機器を体に装着することも可能になるかもしれない」という予測が成り立ったとき、開発者たちはこんなことを考えたことでしょう。
これで、見たもの・聞いたことの全てを記憶できる時代が来る
ウエラブル(Wearable:「体に装着可能」の意味)の誕生です。
NTTで研究されているウエラブルの一例を挙げましょう。
体に貼り付けたセンサーで、自分がどこにいるのかがGPSで把握できます。また、超小型デジタルカメラをつければ「今、自分が見ているもの」をカメラに撮ることもできます。
これらのデーターは、赤外線送受信の機能でコンピューターネットワークに情報送信されるため、「自動的」にしかもネットワーク上に落とすため「半ば無尽蔵に」送り続けることが可能になります。
つまり、放っておいても勝手に「完全な自分史」が刻々と作られているわけです。
NTTはMIT(マサチューセッツ工科大学)のメディアラボと共同で、1997年にはウエラブルのファッションショーまでしています。つまりNTTは10年も前から、そういった時代が来るであろうと予測していたのでしょう。
そして、その時代は半ば現実のものとなりつつあります。
「経験の記録と共有」と題された学会が、一昨年の4月にウィーンで開催されました。ここでスイスとドイツの学者たちによる共同研究が発表され、話題を呼びました。
というのも、彼らは、人生の「すべての見たもの、聞いたこと」を記憶した場合の情報量を算定したのです。
彼らの発表によれば、ウエラブルで音と映像を24時間、100年にわたって記憶した場合、おおよそ500テラバイトの情報量になります。DVDにすると10万枚程度ですね。
DVD10万枚と聞くと膨大な量のようにも思えますが、情報集積技術の進歩の度合いからすれば、遠くない将来には十分にクリアできる容量でしょう。
さて、仮にウエラブルが実現化されたとしましょう。
そこでは、何が起きるのでしょうか。
おそらく、心理的に深いところでウエラブルに対する拒絶反応が起こると思われます。
というのも、まず、断言しても良いのですが「100%のウエラブルに耐えうる人間はいない」はずですから。
考えてもみてください。自分の見たもの、聞いたこと、行ったこと、失敗したことなどすべてが記憶されているアルバムがあるのです。消してしまいたい記憶や、思い出したくもないことまでが有りのままに存在する・・・・・それを直視できる人がどれだけいるでしょうか。
今、「アルバム」という表現を用いましたが、正確にはウエラブルはアルバムではありません。
なぜなら、ウエラブルには意思がないからです。
スーザン・ソンダクは、『写真論』の中で、こう述べています。
写真を撮ることは、写真に撮られるものを自分のものにすることだ
「自分のものにする」とはなかなかに穿った表現です。被写体の時間、行為、そういった全てを写真という一枚の画像の中に取り込むことは、相手を自分のものにする行為に他なりません。
ウエラブルには、そういった「意思」がないのです。誰かを自分のものにしようとする意思がない、有り体に言うならば「単なる情報が延々と蓄積されていく」・・・・・この無味乾燥さに果たして人々は耐えうるでしょうか。
明けても暮れても毎日毎日雪ばかり降っていて、それがどんどん積もっていく。そんな気象下で暮らすことは、物理的にではなく、精神的にまいってしまうはずです。
もうひとつ、ウエラブルが完成したときに興味深い点は、
「その記憶物は何なのか」
ということ。
われわれは、昔のことを思い出すときに、美化が入ったり修正したりします。ところが、ウエラブルはそれを一切許しません。有りのままの情報が、そのままで残っているわけです。
いわば、「私よりも私のことを知っているもの」があるわけです。
「そんなことはない。所詮は、それは過去の情報の集まりにすぎないではないか」という声が聞こえてきそうです・・・・・ですが、ちょっと留まって考えてください。
あなたが100%ウエラブルを身につけていると仮定しましょう。今、この瞬間にもあなたが見ている情報は刻々とコンピューターネットワークの中に取り込まれています。
つまり、あなたが「ウエラブルは所詮は過去の情報。本当の時間を持っているのは自分自身である」と考えていたとしても、その「あなたの時間」は、「今、この瞬間のみ」でしかありません。
一瞬でも過ぎたならば、それはウエラブルに記憶される情報になってしまう・・・・言うなれば、われわれはウエラブルに情報を記憶するために行動している状態に陥るのではないでしょうか。
「そんな馬鹿な!」と一笑にふされるかもしれません。でも、運動会でビデオカメラを回している人たちを見ると(別にそれ自体を悪いと非難しているのではありませんが)、あながち的を射ていないとも思えないのです。
「わたし」の記憶は「わたし」ひとりのモノのはずです。わたしの記憶を一番よく知っているのは、「わたし」です。もちろん、「わたし」と時を共有した「別の誰か」は、その時の「わたし」のことを知っています。しかし、それは「その人」の記憶の中にいる「わたし」であって、「わたし」の記憶ではありません。
ところが、ここに「わたし」よりも「わたし」に詳しいものが出現します。
すると、ウエラブルは「もうひとりのわたし」になるのでしょうか。
人はドッペルゲンガーを見たときに死ぬ・・・・・という言い伝えがあります。この言い伝えを真に受けてはいませんが、非常に示唆的であると思うのです。
「現在の記録を残そう」とする人類の情熱は、石器時代の昔から始まっています。洞窟の壁画などに残された絵画などに見られるその想いは、 文字の発明により歴史という形で残されるようになりました。人々の行為は文学という形で後世に残され、絵画という見える形で伝えられました。
“Life is short, Art is long.”(人生は短し、しかれども芸術は永し)
この感動を伝えたい、この人の生き様を残したい、わたしたちがこの世に生を受けた事実を残したい・・・・そういう想いが、ウエラブルには根本的に欠落しているのです。
そのウエラブルが「もうひとりのわたし」になってしまうことにより、われわれは精神的な退廃に追い込まれるように思えてなりません。ドッペルゲンガーを見た人物のように。

自分が仮に100%ウエラブルを見に付けて、なおかつ、自身の行動記録を何日も何日も見続けていたらどういう気分になるだろうか・・・・・と考えてみました。
おそらく、「桶の中の脳」の気分になることでしょう。
哲学者ヒラリー・パトナムが提示した、この奇妙な例えは、実際に映画『マトリックス』の中で視覚化されました。
この「桶の中の脳」とは、次のような例えです。
ここに、培養液に浸された人間の脳がある。この脳は体から切り離されているが、神経系は正常に活動している。
(ルパン3世のマモーを想像してもらえればいいでしょう)。
この脳の神経系に対して外部から刺激を与えると、脳は「今、目覚めた」「お腹が減った」「ああ、そろそろ会社に行かなくちゃ」等々の意思を、刺激に対する反応という形で発揮する。
さて、この脳の立場になってみると、彼(or彼女)の意識の中では、日常生活を滞りなく送っているのだ。日々、泣き笑い、喧嘩し、働き、子育てし、そして死ぬ・・・・一連の人生を送っているのだが、果たして脳は自分が外部から刺激を送られているに過ぎないという『事実』に気づくのだろうか。
この疑問自体は、デカルトが方法序説の中で述べたことに端を発するのですが、パトナム自身は、この問題について「脳は、自分自身のおかれた状況についてわからない」と結論付けています。
映画『マトリックス』を例えに引くと、マトリックスの中で一生を過ごす者は、マトリックスの存在について語ることはありません。
否、正確に申すならば、仮にマトリックスについて語ったとしても意味をなさないのです。パトナムによれば、桶の中の脳が「本当の姿」を認識できないのは、「それを語る言葉を持たないから」です。
仮に、桶の中の脳が、その意識のなかで「脳」という言葉を想起したとしても、それは桶の中の脳が置かれている「現実の姿の中での『脳』」を意味するものではありません。
犬が『ワン』と吼えても「おお!数字の『1』を犬がしゃべっている」と考える人はいないでしょう。
言葉が意味を成すためには、発話者と受け手の間に共通理解が成立していなければならないのです。
ならば、自分のウエラブルを自分が見るときには、完全に自己完結した世界のみが開かれます。
ここまで書いてきて、ふと思いました。
なあんだ、「マルコビッチの穴」じゃん(笑)
そもそも、他人のウエラブルを見たいと貴方は思いますか?
わたしは思いません。
それは、他人が説いたロールプレイング・ゲームの行動画面を延々と見せられるのにも似ています。
ましてや、それを見る時間がもったいない(笑)。
60年間の記録を見ようと思ったら、倍速で見ても30年かかるのですよ?
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