2009年9月26日 (土)

ユッキーって柄ですか?

朝日新聞もほのぼの記事に手を染めたようです。

「ユキオ」「バラク」――訪米中の鳩山由紀夫首相とオバマ大統領が24日、ピッツバーグでのG20(金融サミット)夕食会で、初めてファーストネームで呼び合った。

今月初めに大統領が総選挙の勝利を祝って鳩山氏に電話して以来、23日の初会談も含めて4度目の会話。大統領の方から「バラクと呼んでくれ」と呼びかけた。

首相は「気さくな人。きっといい関係ができる」と周辺に語った。すでに「ファーストネーム友達」の幸(みゆき)、ミシェル両夫人に負けまいと、発音しづらい「ユキオ」でなく、ニックネームの「ユッキー」と呼んでもらえないか思案中という。
           (ピッツバーグ=村松真次)





「ロン・ヤスかよ」と突っ込んでしまいそうな馬鹿馬鹿しさ。


でも「ユッキー」っていいかも。我が家の次男(3歳)も、都合が悪くなると「小さいことは気にしない。それワカチコ、ワカチコ」って逃げてることだし。

ああ、それは「ゆってぃ」か。



でもオバマだって、ノッチなんだから、同じようなもんだ。





オバマも、「私のことをユッキーと呼んでくれ」なんて鳩山が求めてきたら軽快にこう言ってもらいたいものです。


Change!

2008年3月28日 (金)

葭田野様よりいただいたコメントに対して、お答えいたします。



会派というものが、なぜ存在するのか。これは、難しい問題です。

実は、この「会派とは何か」という問いに対して、明快な答えは用意されていません。法的には「議員の集合体」ということになるのでしょう。最近の判例を見ても、裁判官によってその捉え方はまちまちです。

むしろ、「会派とは何か」という問いよりも、「会派が何をするのか」という問いの方が重要なのでしょう。葭田野様の疑念もその辺りにあるのだろうと推察します。

これまで会派は、どちらかというと「数は力」の原理で押し切るものとして捉えられてきました。私はそれを否定するつもりはありません。なぜなら、「議会の中を変えていこう」とする際にも、実際に「力」は必要になってくるからです。真に重要なことは、「その力をもって何をなすのか」といえるのでしょう。


さて、「議会の中を変えていこう」という目標はあるのですが、具体的に何を変えるのかについては、いささか話が長くなりますし、論点が多岐に渡ります。

そこで、この場ではひとつだけ。

これまで議会は「議決だけをする機関」でした。例えば、3月議会に議案が提出されます。その議案を「可決するか、否決するか」の二者択一だけをする機関であったのです。もちろん、理事者に対して意見を述べたり、執行に対しての注文をつけることはいたします。

しかし、出てきた議案をひっくり返すことはなかなかできません。次年度予算案などはその典型例でしょう。予算案をひっくり返すということは、市長に対する不信任案と同様です。

これは、本来的におかしなことだと私は考えていました。私たち議員は、市民の代表者として議場に立ちます。市民の求めるもの、市民の意見を市政に反映させることが私たちの仕事であるにもかかわらず、肝心の予算案に我々の意見は反映される場が無い。

まずは、この点から変えていきたいと考えています。




それと、もうひとつ。

「数」を頼みに、私腹を肥やすという会派は「親分―子分」の関係がきっちりしています。少なくとも、私の属する会派はそのような関係がありません。

だって、会長である私が議員の中で最も若造なんですから。^^;








もうひとつのコメントで取り上げられた「おりものミュージアム(仮称)」についてですが、この建物の本来の目的は「文化財としての保存」にあります。

かつて、勝山は煙草の生産地として名を馳せていました。しかし、そのことを知る若者は多くはありません。私も知識としては知っていますが、果たしてどの程度のものであったのかはさっぱりわかりません。なぜなら、往時の姿を残すものが何もないからです。

繊維産業が勝山からなくなるとは思えませんが、それでも次の世代に「繊維王国 勝山」の姿を示す建造物を残すことは必要でしょう。

その意味において、私は「おりものミュージアム(仮称)」を残すことに賛成なのです。


ただ、そこから一歩進めると、話がややこしくなります。

あの建物を観光の起点にするのか、エコミュージアムの発信地にするのか、それとも歴史を示す展示場にするのか・・・・様々な目的・用途を詰め込みすぎて、何となく焦点がぼやけてきているような気がします。

新年度から「立ち上げの準備室」が設置されますが、このぼやけた焦点のピント合わせをどのようにするのか・・・・これは難しい問題だと思います。


2008年3月16日 (日)

当世学生堅気

この前の話です。

昔、家庭教師をしていた子供から電話がかかってきました。彼ももう大学2年生。進路に関する相談ごとだったのですが、そこでこんな会話が。

私:「バイトとかしてるの?」
彼:「してるっす。結構、お金がいるんですよ」
私:「そっか。色々遊ばなきゃいけないよな」

私:「レポートやら何やらで、学生も大変だろう?」
彼:「いやぁ、そんなことないっす。レポートなんて5分でできるっす」
私:「はぁ?・・・5分?・・・・」

私が学生の頃と違って、今では大学生のレポート提出もメール添付で送るそうです。まあ、教官からすれば、便利この上ないのでしょうが、メール添付ということは、ワード文書で送ると言いうこと。

そうすると、そこで登場するのがコピー&ペースト。あちらからコピペ。こちらからコピペ。つぎはぎだらけとはいえ、5分でレポートが完成するというのも納得です。

小学生の頃、読書感想文の宿題に「あとがき」のコピペをしていた私としては、彼の発言を聞いて苦笑い。当世学生堅気というやつですね。






彼の即席レポート作成講座を聞いてふと思い出したのは、私の学生時代のこと。



とある授業の冒頭で、こんなことを教官から言われました。

「私の授業ではレポートを書いてもらうのだが、ひとつだけ言っておきたいことがある。君たちのレポートの内容には、さほど期待はしていない。独創的なレポートなど学生ごときのレベルで書けるはずがないからだ」

「おそらく君たちは色々なところから、切り貼りしてきたものをまとめるだけのレポートになるだろう。痩せても涸れても私はこの道のプロだ。これでメシを食ってるのだから、君たちがどこから切り貼りしてきたかなどはすぐにわかる」

「私が点数をつけるのは、その切り貼りの仕方だ」

「切り貼りにもセンスというものがある。これとあれを組み合わせたのでは、気持ちが悪い。理屈が通らない。そういったことがわからずに、無闇やたらとつなげるようなものには、点数はやれん」


ちなみに、この教官のレポート採点には伝説がありました。


この教官は、毎年4月の冒頭にこの台詞を吐くのですが、ある年のこと。
この台詞を受けて、ある学生がよりにもよって「切り貼り一切なし」のレポートを提出したそうです。つまり、その筋の権威と呼ばれる先生の論文(しかも教官の師匠)を、そのまま移してレポートにしてしまった・・・と。


そして、そこには
「あまりにすばらしい論文でしたので、切り貼りできませんでした」との学生の書き添えが。


「切り貼りはセンスだ」と言い切った手前、その書き添えの文句にぐうの音も出ず、さりとて自分の師匠の論文に点数をつけるわけにも行かず・・・・最終的に、“A”をつけたとのこと。


ちなみに、この「伝説」の出所は、当の教官自身。
「それくらいのセンスを見せれば、点数は高いぞ」
とのたまっておられました。


つまり、この言い草は「同じ手口は二度とは通じない」ということです。ここまで言われたのでは、こちらとしても黙ってはいられません。私たち有志は、あの手この手で「新しい手口」を工夫し、意気揚々とレポートを提出しましたが、軒並み撃沈されたのでした。




後日譚。

後輩からこんな話を聞きました。

翌年のこの教官の授業の冒頭は、例によって「私の授業ではレポートを出してもらうのだが・・・」で始まったわけですが、例年と違ったのは
「色々な手口を考えてくるばか者がいるが、センスが低すぎる。去年はこんな手口が出てきた」
と、私たち有志の手口を晒されたのでした。恥の上塗りです(涙)。







某音楽大学には、こういった伝説があるそうです。

出席率の低さに腹を立てた音楽史の教官が学期末の試験問題にこんな問題を出しました。
「この授業の担当教官の顔写真を当てよ」
真面目に授業に出席していれば顔くらいはわかるだろうと。



問題の下には音楽史の偉人の顔が並んでいます。バッハ、ハイドン、モーツァルト・・・その中に日本人の顔が並んでいれば簡単なはずなのですが、この教授もその当たりは心得たもの。わざと助教授やら講師やらの顔写真を混ぜておくわけです。


通常、試験会場に授業担当教官は現れません。ところが、この教授。ちらりと顔を出すわけです。
それを覗いた学生たちは、「しめた!」とばかりに問題用紙の顔写真に丸を打つ・・・・のですが、ここに現れたのは教授ではなく、講師。


これが第1のひっかけ。


この第1のひっかけをクリアした学生たちがいます。学生たちもバカではありません。試験間際になると、「何か試験に出そうなことを言うかもしれない」と授業には顔を出すものです。試験のある月だけでも授業に顔を出している学生たちは、担当教授の顔を見知っているのですから、こんなひっかけには落ちないのです。


ところがこれが第2のひっかけ。


この教授、試験当月の授業には、そのダミーの助教授に授業をさせておく念の入れよう。「試験前くらいは授業に出て、何か役立つ情報を得よう」と、そこだけ出てきた学生たちは、あえなく第2のひっかけにだまし討ち。


しかも、学期末の試験はこの1問だけ(笑)。









昔昔から伝わる話としては、こんなものがあります。

「テストで全くできなかった学生が、ダルマの絵を描いて『手も足もでません』と書き添えたらテストに通った」



これは、もはや『伝説』の名に相応しい地位を占めています。
「解剖実習で、耳を切り取って壁につけて『壁に耳あり、障子に目あり』とギャグをかましたら教官に見つかって退学になった」
というくらいの『伝説』でしょう。



ただし、「壁に耳あり」はあながち嘘とも言えません。確か養老猛司氏だったと思うのですが、こんなことを書いていらっしゃったように記憶しています。
「解剖の実習に始めて参加する学生は、段々とおかしな気分になっていくんです。陰嚢を切り取ってぶらぶらさせて「ほ~ら、風鈴だよ」なんて言い出す」
なるほど、そんな雰囲気なら「壁に耳あり」もあったのかも。



さて、問題の「ダルマの絵」なのですが、人間追い込まれると色んな手段を講じるものです。

私もドイツ語のテスト(担当教官ドイツ人)で試してみたことがあります。ダルマの絵。

・・・・結果ですか?・・・・・(沈黙)・・・・・

2008年3月 3日 (月)

公と私の狭間で

何とも難しい話です。



「娘の意識がない!」。妻の悲痛な叫びを電話で聞いた定年間近の救急隊長が、救急車で管轄外の自宅に向かい、娘を病院に搬送した。当直指令の許可は受けていたが、消防本部は職務規定違反とし、免職に次いで重い停職6カ月の懲戒処分を下した。この判断をめぐり市当局には賛否両論多数の意見が寄せられ、インターネット上でも激しい議論が続いている。

 神奈川県藤沢市消防本部によると、南消防署苅田出張所所属の救急隊長(59)は先月19日夕、約3キロ離れた隣接する茅ケ崎市の自宅の妻から、持病を持つ20代の二女の急変を知らされた。

 当直主幹の許可を得て、隊員2人を乗せサイレンを鳴らし自宅へ急行。約3分で到着し、意識がなくなった二女を搬送、10分後に病院に到着した。所属救急車は1台だったが、6時35分に出張所へ戻るまで出動指令はなかった。

 この行為に市消防本部は、地方公務員法の「法令等および上司の職務上の命令に従う義務」違反、「信用失墜行為」に該当すると判断。市の懲戒規定に従い隊長を停職6カ月(実際は3月末退職までの42日)、許可した主幹を戒告とした。だが、これに普段は公務員の不祥事に厳しいネットユーザーが反応した。

 「他の救急要請をほったらかしにしたのなら非難もあるだろうが、これは家族でなくとも出動すべき事例だ」「自分がその立場に置かれたらどうするかを考えろ」「厳重注意のうえ罰則は仕方ないが、定年間近に6月の停職は重すぎ」

 逆に、「1台しかない救急車を私的利用。同僚も公務を放棄して同乗し、管轄外の地区に出向いた。処分は当然」「普通に119番した方がどう考えても早い。プロ中のプロが娘のみならず、藤沢市民をも命の危険にさらしたという、希に見る不祥事」と処分容認派も登場、議論はいまも続いている。藤沢市にも、同様の意見が多数寄せられているという。

 思わぬ騒動に直面した藤沢市消防本部総務課は、処分の決断について次のように説明する。

 「日本の救急はすべて、生命の危険にさらされた患者さんのため1分1秒に命をかけています。指令の『出動許可』は『出動命令』ではありませんし、(隊長の自宅がある)茅ケ崎市にも消防本部がしっかり組織されています。当市として救急活動を行うケースでもありませんでした」

 さらに、「処分の重さは何とも申し上げられませんが、違反は違反。通常通り通報するのが最も早い手順。(隊長は妻に)冷静に『まずは119番しろ』と指示するべきでした」(総務課)。

 別の市幹部は、定年目前の大ベテランに重大な処分を下すにあたり、相当な葛藤(かっとう)があったことを明かす。

 「隊長はこれまで処分歴もなく、40年以上もまじめに奉職してきました。その最後の最後を停職で終わらせるのは何ともねぇ。職員の間でもいまだに賛否が渦巻いてますよ。人間は機械じゃないんだし、こういう人より先に処分すべき公務員は、全国にもっと大勢いると思いますけどね…」

 救急隊長は、「動揺していた。救急のプロとして迷惑をかけ、本当に申し訳ない」と反省し、処分が決定した今月19日付で依願退職した。



全体の奉仕者としての職務を命じられている公務員が、私的にその職権を行使することは許されないことです。この救急隊長は冷静に「管轄が違うのだから茅ヶ崎の消防本部に119番しろ」と言うべきだった・・・という理屈は、そのとおりです。

公務員にある人は、大なり小なりこういった意識を平生から持っているでしょう。例えば教職員ならば「もし、私の子供が勤務先に入学してきたら・・・」。警察官ならば「仮に私の子供が事件に巻き込まれたら・・・」。その意味で、この救急隊長は心構えが足りないという理屈も確かにそのとおりでしょう。




ただ、私も子を持つ親として、この救急隊長の気持ちは痛いほどわかります。

2007年11月18日 (日)

(≧ヘ≦) ムゥ

最近、忙しくてブログの更新もできませんでした。すみません。

さて、ブログの更新がなされていない間に何をしていたのかと申しますと・・・・

行政視察に行ってまいりました。


栃木県の二宮町です。この町では電算化システムを先進的な手法でドラスティックに変えています。是非、その手法を学びたいと思い視察に行ってきました。

快く視察を受け入れていただいた二宮町の皆様。ありがとうございました。

ただ今、視察の内容を元にして面白いものを作っている最中です。出来上がったときには、皆さんにもご覧いただくことになるでしょう。

ちなみに、二宮町役場の職員の方に「HP見てますよ」と言われたときには驚きました(苦笑)。






そして、11日にはNPO法人ドラゴンリバー交流会の主催する河川愛護啓発シンポジウム『九頭竜川水系における河川愛護啓発活動』を見に行きました。

(社)勝山青年会議所が九頭竜川の河川清掃を始めてから今年は3年目に当たります。その一連の活動内容の発表を、本会の中桐理事長がすることになりました。

Photo
3年の流れの1年目となる清掃活動を担当したのは私でした。その当時を振り返ると、懐かしい思い出が3割。周りにかけた迷惑を思い出して出てくる冷や汗が7割。



上の写真は、発表をする中桐理事長。ちょっぴり緊張気味のように見えたのですが・・・・(本人は緊張してなかったと言い張っておられました)

パネラーとして招かれた方の中に、「エコネイチャー彩みくに」代表の阪本周一氏がいらっしゃいました。この方は、その世界ではとても有名な方なのですが、氏の発表の中に三国海岸のゴミの模様がありました。

あれは、是非皆さんにも見ていただきたかったです。あの写真を見れば、川にゴミを流そうなどと考える人はいないでしょう。




ゴミを捨てない工夫というのは、実は難しいようで簡単でもあります。

例えば、ペットボトルの容器などはゴミの最たるものですが、10円値上げすれば良いだけのことなのです。その10円は「容器を集配場に持っていったときに返しますよ」というシステムを作ればよい。
(逆に、そのシステムを作り上げれば川清掃はお宝探しの様相を呈することでしょう;)

この視点から考えれば、電化製品の回収をメーカー等に押し付けたのは、行政の大きなミスでした。電化製品も消費税に相当する金額を別途上乗せして売れば良かったのです。そして、上乗せした金額は捨てる際に集配場に持ってくれば購入者にお返ししますというシステムを作っておけば不法投棄はきれいになくなることでしょう。

何でもかんでも人の善意に期待するという施策はボロが出ます。もちろん人の善意に最終的に頼らなければならない側面はあるのですが、良い意味での「利益」がなければ、人は動きません。





このシンポジウムを聞いて思ったことを二点ばかり。

ゴミは、まぎれもなく「大量生産・大量消費」の産物ですね。つまり、我々の文化そのものが産み出したものと言えます。

「土に還らないものは文化とは言えない」と喝破したのは水上勉ですが、その通りかもしれません。我々日本人は、文化として「土に還る」を基本としていました。否、日本人だけでなく世界中の人々がそうであったはずです。そういう文化を何万年も続けてきたわけです。

ところが、その何万年もの「土に還る」文化の末尾に「土に還らない」文化が30年ほどくっついているのが現代です。果てさて、これがどのような結末を辿るのでしょうか。


それと、もう一点。

大量生産・大量消費を成立させるためには、「使い捨て」が不可欠です。直して使おうなんて逆にコスト高になってしまい、敬遠されるだけです。親が使ったものを大事に子供が使うというのは・・・・・和服ぐらいのものじゃないですか?
それくらいに「使い捨て」は幅を利かせています。世の中、ほとんど全てのものが使い捨てです。

その発想が根底にあるとき、どうしてモノだけが使い捨てになると言い切れるのでしょう。
人だって使い捨てになるんじゃないでしょうか。

モノに対する温かい眼差しは、巡り巡ってヒトに対する温かい眼差しになるような気がします。


2007年11月 2日 (金)

鳩山大臣とウルトラマンと日本の主権~その1~

鳩山大臣の「CIAに情報を流していた」発言については、前回のブログで述べたとおりです。


しかし、この発言。鳩山大臣の脇が甘すぎるといえばそれまでなのですが、これがアメリカではなくて北朝鮮だったらどうだったかな?という気はします。

これは、鳩山大臣が「CIAに情報を流していた」のではなく「北朝鮮に情報を流していた」のであれば、果たしてここまで公言したかな?という疑問ですね。北朝鮮に対する風当たりの強さから発言を慎むだろうということは容易に予測できます。いくらなんでも「私は北朝鮮に情報を流していました」では世論の批判は免れないでしょう。

ただ、私が敢えて北朝鮮とアメリカを天秤にかけた理由は、もちろん北朝鮮ならば世論は許さないということもあるのですが、それ以上に、アメリカならば世論もさほど騒ぎはしないだろうという鳩山大臣の考えが幾らかはあったのではなかろうかという点です。

ちょっと補足しますと・・・

鳩山大臣の問題発言は・・・これは問題発言以外の何物でもないのですが・・・・発言を通して彼が言いたかったことは「国家として情報収集は必要ですよ」「ほら、実際にアメリカはこんなところまでやってるじゃありませんか」という点でだったのでしょう。

「こんなところまでやってるじゃありませんか」という説明に自分の体験を引き合いに出すところが脇の甘さなのですが、それはさておき。おそらく鳩山大臣も「国家として情報収集は必要ですよ」「ほら、北朝鮮はこんなところまでやってるじゃありませんか」という文脈で語ったならば、(仮に北朝鮮からの利益供与があったと仮定して)自己の体験を引き合いに出さなかったと思うのです。

理屈上、これはおかしいんです。だって、北朝鮮であろうがアメリカであろうが国家の情報を流すこと自体は同じです。実際に国民は国家の情報を軽々と流すことに対して問題視しているのであって、相手先がどこであろうと関係ない。
私が言いたいのは、鳩山大臣の中では、相手先がどこであろうと許されるはずのない国家情報漏洩に対して線引きがされていたのではないかということなのです。「アメリカならば国民も納得してくれるだろう」みたいな安心感。これがあったと私は思っています。

この思い込みがあったのかどうかは鳩山大臣本人以外は知る由もないのですが(仮にあったとすると)、この思い込みは2つの前提がなければ成立しません。
 (1)鳩山大臣がアメリカに対する信頼(or親近感)を持っている
 (2)国民がアメリカに対して信頼(or親近感)を持っている
少なくとも、鳩山大臣自身はこの2つともあると考えていたのでしょう。


さて、この鳩山大臣の思い込みの前提となる(2)は存在するのでしょうか。



私は存在していると思ってます。






よく言われるのは、「アメリカはウルトラマンだ」という話ですね。これは確か90年代の半ばくらいに佐藤健志という人が書いた本で広まった比喩です。

これはどういうことかというと、ウルトラマンはアメリカであると。そしてウルトラマンに守られている地球人が我々日本人であるという構図を表したものです。




ウルトラマンには怪獣が出てきます。これは誰しも知っています。そして地球の平和を守るためにウルトラマンは怪獣と戦う。これも誰しも知っているところです。

ですが、そもそも怪獣と戦わねばならないのは人間なんですね。なぜなら、怪獣はウルトラマンと戦うために地球にやってきたわけではありません。人間を滅ぼすために地球にやってくるのですから。

この「人間⇔怪獣」という図式の中では
  怪獣>人間
なんです。怪獣の方が強い。そもそもこれでなければウルトラマンが出てくる意味がないですから。

そして、ウルトラマンが出てくると
 ウルトラマン>怪獣
という図式が成り立ちます。ウルトラマンは怪獣よりも強い。そうでないとストーリーが破綻します。

もちろん、この2つの図式の中には
 ウルトラマン>人間
という図式もあるわけです。これも当然でしょう。

ところが、この3つの図式を同一の枠組みの中に入れてしまうと、少々ややこしいことが起きてしまうのですね。どういうことかというと、力関係の比率がこの3つの図式は全く違うのです。「新幹線」と「特急」と「自転車」のスピード比較をするようなものです。

ウルトラマン>>怪獣>>>>>>>>>>>>>>>>>>人間

こんな図式になってしまう。そして、この図式の中では人間なんてやることがほとんどありません。

ウルトラマンには科学特捜隊という組織が出てきます。言うなれば人間が防衛のために作った組織です。この科学特捜隊のイデ隊員(だったと記憶してます)は、シリーズの後半で
「ウルトラマンがいれば、俺たちなんていらないじゃないか」みたいな発言をしてるのですね。再放送を見ていた私は子供でしたが、その投げやりな言い方はよく覚えてます。

「それを言っちゃ、おしまいだろ?」と思わなくもないですが、実際そのとおりでしょう。やることないですから。




やることがなければ、どうするのか。人間は無条件にウルトラマンを信頼するより他にないのです。


でも、これも奇妙な話です。

TVでウルトラマンを見ていた私たちの視点は、客観的に見ているようで、実はウルトラマンの視点に立っています。少なくとも事情を全く知らされていない人間側の立場にはありません。

怪獣がいきなり暴れはじめてそこにウルトラマンが出現したら、我々はどう思うでしょう。「やばい。怪獣が2匹になった」と思うのが普通でしょう。ところが、この2匹の怪獣はいきなり取っ組み始めて片方が勝った。果てさて、この勝った怪獣はどのような行動を取るのかと思っていたら、カラータイマーをピコピコさせながら空に飛んでいった。「良かった、この怪獣は我々に危害を加えなかった」

またしても、別な怪獣が現れたときにも、この怪獣は現れて退治してくれた。それが続くに及んで「どうやら、この赤白の怪獣は我々の敵ではなさそうだ」と感じるのではないでしょうか。

この「どうやら敵ではなさそうだ」という感覚と、「正義の味方」というそれとはものすごい距離があるのですね。








『ガメラ』という映画があります。これはゴジラに対抗する大映のドル箱映画なんですが、このガメラシリーズの第2作が『ガメラ2 ~レギオン襲来~』です。



Photo個人的には非常に良くできている映画だと思います。

この映画の中で、地球を侵略する敵としてレギオンという怪獣が出てきます。このレギオンとガメラが戦うわけですが、自衛隊は、事もあろうにレギオンと戦っているガメラを攻撃するわけです。

財津一郎演じる師団長(多分)は、確かこんなことを言ってたはずです。
「ガメラは我々の味方とは限らん」



映画を見ている分には理不尽な台詞と感じるかもしれませんが、この財津一郎の台詞の方がまともと言えばまともなのでしょう。

ガメラと会話した人間がいるとも思えません。もっとも、作中には出てくるのですが、普通はガメラの意思なんて確認しようがないわけです。「私はガメラと言います。私はあなた方の安全を守ります」という約束でもしているなら、まだ話はわかりますが、「本当にあいつは俺たちの味方なのか?」と不安に思うのが当然でしょう。




「どうやら敵ではなさそうだ」という発想と「正義の味方」は違うということです。
「正義の味方」ならば、無条件に信じるのも結構でしょう。しかし、「どうやら敵ではなさそうだ」というレベルの存在を、なぜ無条件に信じることができるのでしょうか。



(その2へ続く)

2007年10月19日 (金)

気になること

最近、気になることがいくつかあります。

まずは、ボクシング亀田VS内藤の世界戦について。


あのタイトルマッチそのものは、亀田選手のお粗末としか言えないような試合展開だけが記憶に残るものとなりました。12Rの「あわやエクスプロイダーか?」と思わせる投げは、半ばやけくそ気味のものとしか思えません。

それはそれとして、私が納得いかないのはマスコミの対応です。あの亀田父子が増長していたというのであれば(確かに増長していたのでしょうが)、それはマスコミにも責任の一端があります。煽るだけ煽っておいてヒールを作り上げ、国民の意識が「そろそろ亀田叩きに向かったかな」と見るや否や、今度は徹底的に叩き潰しにかかる。要するに、何でも良いのでしょう。視聴率がかせげるネタが飛び込んできた。それがたまたま亀田親子だった。亀田親子に飽きたならば、また朝青龍のネタで稼ぐだけだ・・・・

とにかく、マスコミの「場当たり的」かつ「扇情的」な報道の仕方が、やたらと目に付くような気がします。


その例は、他のところにも現れています。


例えば、「お笑い」。



その典型的な番組が「エンタの神様」だと私は思っています。

最初は、この番組、良質なエンターテイメント供給番組でした。歌あり踊りあり。松尾幻燈齋(Mr.マリック)が「気の極みです」というフレーズでマジックもしていました。

ZONEが廃校になる学校で歌うという企画など、ちょっと鼻につくような企画もあったのですが、モーニング娘と宝塚がコラボレートしたりと、なかなかに面白い出し物が多かった気がします。カールスモーキー石井も確か歌っていたような気がするのですが(違っていたらごめんなさい)。


それがいつの間にか、お笑いオンリーの番組となり、さらには「場当たり的」な売り方が目立つようになっています。色物、キワモノ系の新人芸人を発掘して、運良く当たればそれで食いつなぐという傾向が強まっていると感じています。



「芸人のことなんぞ構っていられない。その芸人が将来的に売れるか売れないかなんて、こっちの知ったことじゃない。とりあえず視聴率さえ取れればいいんだよ。色物だろうがキワモノだろうが、視聴率が取れるんだったら何でもやってやるよ。芸人だって売れたいんだろ?だったら、ギブ・アンド・テイクでいいじゃないか」
・・・という声が聞こえてきそうです。


そういう風潮は、この番組だけではないようです。ここ数年「お笑い」で売れた芸人さんの寿命のいかに短いことか。

ダンディ坂野、波田陽区、はなわ、HG、・・・・まるで「使い捨て」のごとくに、持ち上げられ飽きたら捨てられるという状況は、「芸を育てる」という発想の対極にあるように思われます。

結局、そういう風潮は長い目で見たときに、芸そのもののレベルを下げてしまい、視聴者に飽きられるという結末をもたらすのではないでしょうか。

もうひとつ、気になったことがあります。


毎日新聞より

自民党財政改革研究会会長で同党税制調査会小委員長の与謝野馨氏は16日、毎日新聞のインタビューに応え、消費税率引き上げについて 「1%ずつ上げて選挙に負けていたらしょうがない。選挙で負けるんだったら、ドーンと上げなくてはいけない」と述べ、2~3%程度を念頭に置く考えを示した。

消費税率引き上げについて「自民党は逃げない。参院選ではみんな逃げたが、逃げまくると(政党の)評価はだんだん下がってくる」と語り、年末の与党税制改正大綱で社会保障財源として消費税率引き上げを明記する考えを明らかにした。

与謝野会長は、基礎年金の国庫負担を現行の3分の1から09年度に2分の1に増やすための財源(約2.5兆円)について「法人税や所得税など直接税を上げるのは至難の業だ。大きな税収が期待できるのは間接税しかないのが常識だろう」と述べ、消費税率引き上げで対応すべきだとの考えを示した。引き上げ幅と時期については明言を避けたが、「消費税増税による景気の下落効果も当然あり、その研究もしている。そういうものとの総合的な判断になる」と話し、景気動向などに配慮する姿勢を見せた。



私が気になったのは消費税論議ではありません。「1%ずつ上げて選挙に負けていたらしょうがない。選挙で負けるんだったら、ドーンと上げなくてはいけない」という 与謝野氏の物言いです。


リップサービズの側面は強いのでしょうが、自民党員の私ですら、こういう物言いをされるとさすがに鼻白みますね。

政権を渡すことを前提に政策を考えるくらいなら、最初から政権を渡せと言いたくなります。








2007年10月 7日 (日)

戦没者慰霊祭

先だって、北郷町の戦没者慰霊祭に出席しました。


「先の大戦」が終わりを告げてから、はや62年。逝かれた方々は、私の祖父・曽祖父の世代にあたります。その時の歩みは、慰霊祭に参列されている皆さんの年齢を見てもわかります。




おそらく、後20年もすればこの慰霊祭も行われなくなることでしょう。それは北郷町ばかりではありません。日本全国で執り行われている慰霊祭は、その参加者の高齢化に伴ってひっそりと幕を閉じるのでしょう。その時に、我々は初めて左翼の言うところの「軍靴の足音」を聞くのではないでしょうか。

人は理念で動くものではありません。ましてやお題目で動くことなど考えられません。平和、平和と口先だけで唱えていれば本当に平和がやってくるであろうと考えるのは、平和ボケした一部の左翼陣営だけで結構です。本当に人の心を動かすのは、人の心だけです。正確に言うならば、人の情念です。酷寒の大陸で、酷暑の島で、ひたすらに祖国の繁栄と家族の安寧を祈って散華された先人たちの想いを我々が忘れない限り、平和国家たる日本は存続しうるでしょう。

先人たちの想いに蓋をして、「あの戦争は実にくだらないものだった」「お前たちの祖父たちは人殺しだったのだ」「軍人たちはだまされて人殺しをしたのだ」などと唱える欺瞞に我々はいい加減気づくべきではないでしょうか。



過去をふり返れば、こちらを向いて歩いてくる過去の人々に出会うのが、歴史の真相である」と言ったのは小林秀雄でした。我々は、日常の生活では未来を想いながら過ごしている。これは前へと進む意志である。もちろん、この意志は時を経れば歴史の衣をかぶるだろうが、我々は前へ進もうと日々を過ごしている。なぜ、歴史をふり返るとき過去の人々はそこで止まっているかのように思い込むのか・・・という意味の言葉です。ややもすると暖衣飽食して、過去の歴史を我々の現在の常識で図ろうとする傾向を諌めたものです。

我々は先の大戦をふり返るときに、果たして散華された先人たちの想いと、我々は出会っているのでしょうか。


 

2007年5月17日 (木)

カズは力なり

私は、選挙権よりもむしろ被選挙権の方が民主制度にとっては重要だと考えています。その意味で、被選挙権を持っている方であるならば、立候補される方が誰であろうと構わないと思うのです。

ただ・・・こういう記事を読むと、気分が洗われるような気がします。

共同通信社より。

自民党が夏の参院選の比例代表に擁立する方向で調整と一部で報じられたサッカーの三浦知良選手(40)は16日、出馬の打診を受けたが、断ったことを明らかにした。
 同選手は体調不良のため、この日のJリーグ1部(J1)横浜FCの練習を欠席。チームの広報を通じ「自民党よりオファーを頂きましたが、お断りいたしました。土曜日の試合に向けてしっかりと調整をして全力で頑張ります」との談話を発表した。




「政治は数(カズ)だ」とばかりにキング・カズを擁立しようと画策したのでしょう。現役選手を招聘するという非礼も如何かと思うのですが、それに目もくれず現役にこだわる姿は、さすがカズです。

2007年1月29日 (月)

雑感

東国原氏が宮崎県知事に当選したというニュースには正直驚きました。


いわゆるタレント候補が知事になったから驚いたのではありません。まさか捲くるとは思っていなかったからです。確か、選挙戦の初めの頃は泡沫候補の扱いであったはず。それがあれよあれよという間に、支持層を拡大していき見事栄冠を勝ち取った・・・・その見事な追い上げっぷりに驚きました。


何はさておき、新知事には頑張っていただきたいと思います。国とのパイプも県議会とのコネクションもないという極めて不利な状況からのスタートですが、橋本大二郎高地県知事の先例もあることです。頑張って欲しいと願います(本心)。




それはそうと、宮崎県議会の議長のアノ態度は・・・・・ちょっと礼を失していましたね。







私が上記のような感想を抱くのにはちょいとした理由があります。


というのも、市長であれ知事であれ、首長と呼ばれる人たちは孤独に苛まれる状況に追い込まれるであろうと思うから。


もちろん、私は首長になったことがないのでそう思うだけなのですが、企業(大企業であろうと中小企業であろうと)のトップに立つ人が感じるであろう孤独感を首長も味わっているんじゃないかな?・・・・と予想するのです。





しかも、首長は組織のリーダーであると同時に「政治家」です。政治家である限り、首長はもうひとつの孤独を味あわねばなりません。


かつて、私の地元にはいわゆる「大物県会議員」と呼ばれる県議がいらっしゃいました。その人が私の父にポツリと漏らしたそうです。「選挙は人を悪くする。政治は人を捻じ曲げる」と。ここで言う「人」とは選挙民のことではありません。「人」とは政治家そのものです。選挙は政治家そのものを悪くする。政治は政治家の心を捻じ曲げていく・・・・そういった趣旨の言葉です。


「得体の知れない悪意」と私は呼んでいますが、政治を志す者はこれに立ち向かうことになります。この「得体の知れない悪意」を言葉で説明するのは難しいですね(苦笑)。例えば、まちづくり活動なので新しいことをし始めた人ならば、納得してもらえるでしょう。つまり、「人々の格好の標的になる」状態に我が身をさらしたときに感じる不安感・猜疑心・やり切れなさ・・・・まあ、そういったものに直面することになるわけです。
(他の議員の方々に直接聞いたわけではないので、すべての政治家がこういった心情を持たれているか否かはわかりませんが)



私なんぞは市議会議員の末席を汚している身ですからまだ楽な方です。
私がこういうことを言うのもナンですが、議員は議会の構成員でしかありません。one of themなのですね。ところが、首長はそういうわけにはいきません。ピンで立っている首長はすべての「得体の知れない悪意」を引き受けることになります。しかも議員ならば同僚議員はいるのですが、同僚を持たない首長にはその孤独を理解する人はいないのです。




そういった「得体の知れない悪意」を克服するのは、詰まるところ本人の理想と使命感、そして市民に対する感謝の念でしかないと思うのです。



ところが、「得体の知れない悪意」と理想・使命感の均衡が崩れ始めると、「何でお前らは俺の言うことがわからないんだ!」という最悪のところへ意識が動き始めます。長野県知事であった田中氏が当てこすりとも言えるような言動を任期の終期に繰り広げていたのは、この均衡が崩れたためではないかと私は邪推しています。



東国原知事には、そういったところへ行って欲しくはないですね。頑張って欲しいです。








話は変わりますが、毎年恒例となった『松村治門 新春の集い・市政報告会』を今年も開催いたします。


今年は選挙の年でもあります。4年間の総括をしなければなりません。「ナンだその程度のことしかしてこなかったのか」というご意見も当然にあることでしょうし、「良し。その調子で頑張れ」というご意見もあるかもしれません。総括の上で出てくるそういったご意見が、そのまま選挙に反映されるわけですから、健全な選挙のためにはやはり総括することは必要ですね。


ただ今、その準備に追われています。左義長まつりの準備もあります。もうてんてこ舞いです・・・・


ちなみに、市政報告会は2月4日ですが、若造の言うことをちょいと聞いてやろう!と思われる方はご連絡ください。まだ若干席に余裕はあるみたいです。